↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/14

第7話 私も覚えていたかった

渡り廊下を抜けたところで、尚弥は足を緩めた。

 教室の前に列ができていた。手に持った紙皿を傾けないよう、慎重に歩いている人もいる。

 その間を通りながら、一人ずつ顔を確かめた。

 澪はいなかった。

 下へ向かう階段が見えた。

 帰るなら昇降口へ行くはずだ。そう思って曲がりかけたとき、上の踊り場で、靴底が擦れる音がした。

 見上げると、手すりの向こうに制服の裾が見えた。

 澪は、踊り場の隅に腰を下ろしていた。

 膝に鞄を置き、その上にノートを重ねている。片手でハンカチを握り、うつむいた顔に押し当てていた。

 尚弥は階段を上った。

 途中で澪が顔を上げたので、数段手前で止まった。

「日向さん」

 目元が赤かった。

 澪は慌ててハンカチを下ろし、立とうとした。膝の上のノートが滑り、両手で押さえ直す。

「ごめん、さっき……」

「謝らないで」

 澪の動きが止まった。

 尚弥は声を落とした。

「謝るの、俺のほうだから」

 廊下から笑い声が聞こえた。

 ここまで上がってくる人はいなかった。

「大きい声、出してごめん。話そうとしてたのに、遮ったのも」

 澪はハンカチを握ったまま、尚弥を見ていた。

「勝手に、どうでもいいんだって決めつけて。あんな言い方、していいわけなかった」

 言い終えても、澪は答えなかった。

 尚弥は唇を結んだ。

 何か付け足したくなったが、それを聞いて彼女が楽になるとは思えなかった。

 少しして、澪が視線を落とした。

「……びっくりした」

 尚弥はうなずいた。

「うん」

「怒ってるのは、わかったんだけど。何から言えばいいか、わからなくなって」

 途中で声が揺れた。

 澪は口元にハンカチを当て、ゆっくり息を吐いた。

 尚弥は、その呼吸が落ち着くのを待った。

「今、話せそう?」

 澪はすぐには返事をしなかった。

 ノートへ目を落とし、それから小さくうなずいた。

「変な話だって、思うかもしれないけど」

「うん」

「最後まで、聞いてくれる?」

 尚弥はもう一度うなずいた。

「聞く」

     *

「私、昨日のこと、覚えてないの」

 澪はノートに手を置いたまま言った。

「昨日だけじゃなくて。その前の日も、もっと前に雨宮くんと会ったことも」

 尚弥は彼女の顔を見た。

 冗談を言っているようには見えなかった。それでも、言葉の意味をすぐには受け取れなかった。

「……駅のことも?」

 澪はうなずいた。

「眠って、朝になると、前の日にあったことを思い出せなくなるの。病気で、そうなってて」

 尚弥は手すりに置いていた手を離した。

「全部、忘れるってこと?」

「昔のことは覚えてるよ。自分の家も、家族のことも。字も書けるし、ヴァイオリンも弾ける。でも、新しくあったことが、次の日まで残らなくて」

 澪はゆっくり話した。

 尚弥の顔を確かめながら、一つずつ言葉を選んでいた。

「今、話してることはわかる。今日、教室で何をしたかも覚えてる。でも、明日の朝は……たぶん、思い出せない」

 今日。

 尚弥は、ついさっきまで自分が立っていた旧図書室を思い浮かべた。

 あの絵を見たことも、泣きながら出ていったことも、今こうして話していることも。

 明日には、澪の中からなくなってしまう。

「でも、俺のこと……名前、呼んで」

「うん。これに書いてあるから」

 澪はノートを持ち上げた。

 端の擦れた、布張りの小さなノートだった。

「毎日、寝る前に書くの。誰と会ったとか、何をしたとか。次の日に読めるように」

 表紙が開いた。

 最初のページに、短い言葉が書かれていた。

 明日の自分へ。

 尚弥は、その文字を見つめた。

 駅で名前を教えたあと、澪が何か書いていたことを思い出した。

 昨日も、廊下で鞄の中のノートに触れていた。

 自分には関係のないものだと思っていた。

「昨日のところ、見てもいいよ」

 澪は後ろのほうのページを開き、こちらへ向けた。

 尚弥は一段上がり、文字の読める位置で止まった。

 雨宮尚弥くん。二年二組、美術部。

 風交駅で何度か話している人。

 明日は文化祭。旧図書室に絵を見に行く。

 その下には、余白があった。

 一行だけ空けて、最後に書き足されていた。

 忘れたくないな。

 尚弥は、そこから目を動かせなかった。

「昨日は、それだけ」

 澪の指が、ページの端を押さえた。

「だから、雨宮くんのことはわかったの。パンフレットにも丸があったから、場所も探せた」

「絵を描いた日のことは……」

「前のページに、書いてあると思う。さっきは、それを探そうとしてた」

 今、それ関係ある?

 自分の声が、頭の中で聞こえた。

 尚弥は奥歯を噛んだ。

 澪はページを戻さなかった。

 昨日の短い記録を見下ろしたまま、指先で紙の端を撫でていた。

「朝、全部読み返せるわけじゃないから。大事なことは、何度か書いてるの。名前とか、次の日の予定とか」

 尚弥はうなずいた。

 聞きたいことはあった。いつからなのか、治るのか、学校ではどうしているのか。

 けれど澪は、まだ話の途中だった。

「もっとたくさん書いてる日もあるよ。ページの下まで、ぎっしり」

 澪の口元が、少しだけ緩んだ。

「そういう日は、読んでるとわかるの。私、よっぽど楽しかったんだなって。嬉しかったんだなって」

 尚弥はノートから顔を上げた。

 澪の目に、また涙が溜まっていた。

「でも、思い出せない」

 声が小さくなった。

「幸せそうだなって思うの。自分で書いたはずなのに。……そのときの私、いいなって」

 涙が頬を伝った。

 澪はハンカチで押さえたが、もう片方の目からも落ちた。

「本当は、私も覚えてたい」

 尚弥は動けなかった。

「楽しかったことも、嬉しかったことも。次の日に、昨日は楽しかったねって……私から、言いたい」

 言葉の合間に、短く息を吸った。

「寝る前までは、わかるんだよ。今日、何を話したかも、何が嬉しかったかも。明日も覚えていられたらって思って、書いて……でも、朝には」

 続きを言おうとして、声が詰まった。

 澪はノートを閉じ、濡れないように少し横へずらした。

「忘れたくて、忘れてるんじゃないの」

「……うん」

 尚弥の返事も掠れた。

「今日の絵も、覚えてたい。あそこに座ってたの、私なのに。雨宮くんと一緒にいたの……私なのに」

 尚弥は目を伏せかけて、やめた。

 描いたときのことくらい覚えててよ。

 澪自身が叶えられずにいることを、できるはずだと責めていた。

 知らなかった、と口にしたくなった。けれど、それではさっきの言葉は消えなかった。

「……ごめん」

 澪はハンカチを下ろした。

「俺、覚えてないってことだけで、どうでもよかったんだって決めつけた」

 尚弥は膝の横で手を握った。

「日向さんがどう思ってたか、聞きもしないで」

 澪は答えず、少しの間、呼吸を整えていた。

 尚弥は待った。

 階下を何人かの生徒が通り過ぎた。笑い声が遠ざかると、窓の隙間から入る風の音が聞こえた。

     *

「……でもね」

 澪が口を開いた。

「今日、雨宮くんを見つけたとき、嬉しかったの」

 尚弥は顔を上げた。

「日記には、どんな人かも、そんなに詳しく書いてなかった。でも、顔を見たら、ほっとして」

 澪は言葉を探すように、少し首を傾けた。

「もっと話したいなって。一緒にいたいなって思った」

 尚弥の指から力が抜けた。

「前にどんな話をしたかは、出てこないの。でも、何もかも、わからなくなってるわけじゃない気がする」

 澪は胸元にハンカチを寄せた。

「会えてよかったって思うのは、今の私なんだよ」

 尚弥は何か答えようとしたが、声にならなかった。

「うまく言えなくて、ごめん。でも……どうでもいいなんて、思ってない」

 澪は尚弥を見た。

 涙の残る目を逸らさずに、今度は最後まで言った。

「絵を見たいって言ったのも、適当じゃないよ」

「……うん」

 尚弥は息を吐いた。

「見に来てくれたのにね」

 そのことが、今になって胸に迫った。

 澪は地図の丸を頼りに、旧図書室まで来てくれた。

 絵を見てもいいかと尋ねて、自分の後ろを歩いてきた。

 それなのに尚弥は、思っていた言葉が返ってこなかったことばかり気にしていた。

「来てくれて、嬉しかった」

 ようやく言うと、澪の唇が少し開いた。

「先に、そう言えばよかった」

 澪は目を伏せた。

 すぐには笑わなかった。尚弥も、笑ってほしいとは言えなかった。

 好きだと気づいたばかりだった。

 もっと知りたいと思った相手のことを、自分は何も知らなかった。

 忘れてしまうことも、それでも会いに来てくれた気持ちも。

 澪は閉じたノートを鞄の上へ戻した。

「明日、また、わからなくなるかもしれない」

 尚弥はうなずいた。

「今日のこと、書いても。読んで、知ってても……同じようには話せないかもしれない」

 大丈夫、と答えかけた。

 けれど、明日またよそよそしい顔をされたら、自分は傷つくのだと思った。

 今日聞いたことを理解したつもりでも、その瞬間に何を感じるのかまではわからなかった。

「すぐに、全部わかったとは言えないけど」

 尚弥は手すりから離れた。

「わからないときは、聞く。今日みたいに、勝手に決めないで」

 澪はノートを見下ろしたまま、小さくうなずいた。

 窓の外で、風に煽られた旗が鳴った。

 尚弥は踊り場の端に立った。階段の下から見上げていたときより、澪との距離が近くなっていた。

「……隣、座ってもいい?」

 澪が顔を上げた。

 尚弥は返事を待った。

 少しして、彼女は鞄を自分の膝へ引き寄せた。

「うん」

 尚弥は一人分の間を空けて腰を下ろした。

 階段の床は、制服越しにも少し冷たかった。

 澪はまだ、ハンカチを手放さなかった。

 尚弥も、次に何を話せばいいのかわからなかった。

 けれど、隣にいてもいいという返事は、聞き間違いではなかった。

 尚弥は膝の上に手を置き、彼女が顔を上げるのを待った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。