第6話 額縁の向こう側
校門をくぐる前から、マイクの音が聞こえた。
『あー、あー。聞こえてますか』
短い雑音が響き、門の上で看板を直していた生徒が顔をしかめる。
尚弥はその下を通りながら、いつもより大きく開かれた校門を見上げた。
人と人を繋ぐ物語。
何度も見た文化祭のテーマが、色紙で作った花に囲まれていた。
足元には矢印が貼られている。昨日、自分が切ったものとは違って、端まできれいに揃っていた。
教室に入ると、すでに何人かが机を動かしていた。
「雨宮、テープ持ってる?」
「ある。何に使う?」
「受付の箱。底が抜けた」
差し出された箱の中には、投票用の小さな紙が散らばっていた。
尚弥は鞄からテープを取り出し、底の折り目を押さえた。
クラスの出し物は、来場者が途中の選択肢を選びながら読み進める物語だった。教室の中を仕切り、選んだ答えによって違う結末へ進む。
尚弥が描いた矢印は、その分かれ道に貼られていた。
「こっち、まだ出口になってない」
奥で誰かが言った。
尚弥は顔を上げる。
「昨日、椅子を戻したからじゃない?」
「あ、本当だ。ちょっと通ってみて」
箱を渡し、狭い通路へ入る。
突き当たりの紙には、『もう一度、会いに行く』と書かれていた。
そちらを選ぶと、受付の裏へ出た。
「戻ってきた」
「そこは合ってる。再会する終わり方だから」
「受付の人に?」
「細かいことは言わない」
尚弥は笑い、邪魔になっていた椅子を端へ寄せた。
*
午前中の当番は、思った以上に忙しかった。
入口で説明をして、出てきた人から投票用紙を受け取る。途中で道がわからなくなった人を案内しているうちに、次の客が来る。
気づけば、廊下を覗く暇もなくなっていた。
交代の生徒が来たときには、昼を少し過ぎていた。
「雨宮、これ持ってって」
同じ受付だった男子が、紙袋を差し出した。
中には個包装の焼き菓子が二つ入っている。
「差し入れ。余ったから」
「いいの?」
「俺、もう食べた。美術部も当番あるんだろ」
尚弥は礼を言って受け取った。
一つを食べながら廊下を歩く。甘い生地が口の中の水分を吸って、途中で飲み物を買えばよかったと思った。
一年生の教室が並ぶ階では、窓際まで人が溢れていた。
三組の前で、少し足が遅くなった。
入口に澪はいなかった。
中を覗こうとして、やめる。
会えば話せる。それだけのことなのに、わざわざ探しに来たと気づかれるのは落ち着かなかった。
尚弥は紙袋の口を折り、渡り廊下へ向かった。
旧図書室に入ると、さっきまでの人の声が遠くなった。
窓が少し開いていて、受付に置かれた部誌の表紙が浮いている。
椎名はその上に文鎮を置き、尚弥を見た。
「早いね。まだ十分あるよ」
「向こう、交代したから」
「じゃあ、説明だけ。部誌は持っていってもらっていい。感想はそこの紙。鉛筆は、書き終わったら戻してもらって」
尚弥は机の上を確かめた。
小さな箱の中に、折り畳まれた感想用紙が何枚か入っていた。
「人、来てる?」
「ぽつぽつ。午前中、ご夫婦が雨宮くんの絵を見てたよ」
「何か言ってた?」
「昔、この駅を使ったことがあるって」
尚弥は窓際を見た。
額の中では、澪がベンチに座っていた。膝の上の鞄に片手を置き、もう片方の手で髪を押さえている。
小さく描いた横顔は、こちらに少しだけ向いていた。
「その人たちが知ってる頃は、もっと新しかったんだろうな」
「うん。そういう話してた」
自分の描いた絵の前で、知らない誰かが昔の話をしていた。
見られることをあれほど怖がっていたのに、それはもう少し聞いてみたかった。
椎名が荷物をまとめる。
「何かあったら連絡して。次の当番の人、二時には来るから」
「わかった」
尚弥は受付の椅子に座った。
壁の時計は、まだ十三時になっていなかった。
*
澪が来たのは、十四時を二十分ほど過ぎた頃だった。
尚弥は受付を後輩に任せ、部誌の残りを机に並べ直していた。
廊下で足音が止まり、開いた扉から顔が覗いた。
「……ここ、入っていい?」
手には、折り畳んだパンフレットがあった。
尚弥は部誌を置いた。
「うん」
来たんだ、と言いそうになった。
それでは、ずっと待っていたみたいだった。
澪は入口の案内を見てから、室内に足を踏み入れた。
「こっち、静かだね」
「離れてるから。場所、わかった?」
「この丸があったから」
広げた校内図には、尚弥の描いた矢印があった。
何度も開いたのか、折り目のところだけ線が薄くなっていた。
「よかった」
それ以上、言うことが見つからなかった。
何を話そうか考えていたはずなのに、顔を見ると、用意した言葉がどれも不自然に思えた。
「絵、見てもいい?」
「そのための展示だし」
言ってから、もう少し普通に答えればよかったと思った。
けれど澪は、小さく笑った。
「そうだね」
尚弥は窓際へ案内した。
先ほどまで作品を見ていた二人組が、会釈をして出ていく。
澪は一度その人たちを避け、額の前に立った。
尚弥は半歩後ろで止まった。
澪の目が、絵の上をゆっくり動いた。
屋根。草の伸びた線路。画面の端にある駅名の看板。
それから、ベンチで止まった。
「……これ」
尚弥は、彼女が続けるのを待った。
「私?」
「うん」
澪は顔を近づけた。
笑うと思っていた。あるいは、少し困るのかもしれないと思っていた。
けれど、彼女の表情は変わらなかった。
「いつ、描いたの?」
尚弥は額から澪へ目を移した。
「駅で、見せたやつ。何枚か描いた中から選んで」
「駅で……」
「ほら、普通に座っててって言ったら、難しいって」
澪の指が、パンフレットの端を握り込んだ。
尚弥は気づいたが、言葉を止められなかった。
「文化祭の絵に入れていいか、聞いたでしょ」
澪は絵を見たまま、うなずかなかった。
「ごめんね」
先に謝られるとは思わなかった。
「何が?」
「私、ちゃんと……」
そこまで言って、澪は唇を閉じた。
受付で、椅子を引く音がした。
後輩がこちらを見ていた。尚弥は声を落とした。
「飾るの、嫌だった?」
「違う。そうじゃなくて」
「だったら、別に謝らなくていいけど」
澪はパンフレットを畳み直そうとした。
折り目が合わず、もう一度開いた。
「綺麗だと思う」
小さな声だった。
「この絵、すごく。だから、変なふうに思わないでほしいんだけど」
「……うん」
「描いてもらったときのこと、うまく答えられなくて」
尚弥は視線を落とした。
犬の数を聞いたときも、こんなふうだった。
学校で話しかけた朝も。三つの四角を見せたときも。
そのたびに、たいしたことではないと思おうとした。
「別に、感想を決めてきてほしかったわけじゃないよ」
「うん」
「ただ、あのとき、一緒にいたから」
澪は何も言わなかった。
「俺と話してるとき、無理してた?」
澪が顔を上げた。
「どうして?」
「前に話したこと、俺が言うと困るから」
澪は何か言いかけたが、声にはならなかった。
尚弥は返事を待った。その短い間にも、自分がひどく滑稽に思えてきた。
昨日の夜は、展示を見たあと一緒に回れたらと考えていた。
連絡先を聞こうと思っていた。
彼女も、少しくらいは同じように楽しみにしている気がしていた。
「俺ばっかり……」
口にすると、それまで飲み込んできたことが、次々に出てきた。
「駅で何を話したとか、日向さんが何て言ったとか。こっちがその話すると、いつも初めて聞いたみたいな顔するし」
「……うん」
「うん、じゃなくて」
声が強くなった。
受付にいた後輩が顔を上げる。尚弥にもそれは見えたが、もう声の大きさをうまく戻せなかった。
「俺と話したことなんて、どうでもいい?」
「違う。そうじゃない」
「じゃあ、何なんだよ」
澪の肩が小さく揺れた。
そんなふうに怯えさせたいわけではなかった。
ただ、一言でよかった。覚えていると言ってほしかった。あのときは楽しかったと、自分と同じように笑ってほしかった。
「少し、待って」
澪が鞄に手を入れた。
布張りのノートを取り出す。開こうとした指が滑り、表紙が一度閉じた。
「ちゃんと、読めば……」
「今、それ関係ある?」
澪の手が止まった。
「俺、日向さんと話してるんだけど」
「うん。だから……」
「だったら、答えてよ」
旧図書室の中で、自分の声だけが響いた。
澪はノートを胸元に引き寄せた。唇が動いたが、何を言ったのか聞こえなかった。
尚弥は額を見た。
絵の中の彼女は、あの日のままの顔をしていた。
どう描けばその表情に近づくのか、何度も消しては描き直した。それを見せることが、今日は何より楽しみだった。
「絵を見たいって言ってくれたのも、適当に?」
澪は首を振った。
「違うよ。それは、本当に」
「じゃあ、描いたときのことくらい覚えててよ!」
言い終えたあと、息が切れていた。
澪は動かなかった。
目を大きく開いたまま、尚弥を見ていた。
その目に涙が溜まっていくのを見て、尚弥はようやく口を閉じた。
「……ごめ、なさい」
一粒、頬を伝った。
澪は慌てて指で拭ったが、反対の頬にも涙が落ちた。
「私、ちゃんと……ごめん、なさ……」
息を吸ったところで喉が詰まった。
続きを言おうとするたびに、唇が震えた。
尚弥の胸の奥が冷えた。
「日向さん」
澪はうつむいた。
泣いている顔を見せまいとするように、ノートを持っていない手で目元を覆った。
「ごめ……っ、なさい」
「いや、俺……」
違う、と言いそうになった。
何が違うのか、自分でもわからなかった。
彼女にあんな言葉をぶつけたのは自分だ。それなのに今さら、泣かせるつもりはなかったと言って、どうするのだろう。
澪は小さく頭を下げた。
それから、尚弥の横をすり抜けた。
「あ、待っ……」
伸ばしかけた手は届かなかった。
澪は入口で一度立ち止まった。ちょうど戻ってきた椎名と、ぶつかりそうになったのだ。
椎名が何か言う前に、澪は顔を伏せて脇を通った。
ノートを胸に抱えたまま、廊下へ出ていく。
足音が遠ざかった。
尚弥は、入口を見ていた。
追いかけなければと思った。けれど、一歩目を踏み出す前に、泣きながら謝る顔が浮かんだ。
自分が近づいたら、またあんな顔をするかもしれない。
「雨宮くん」
椎名がそばに来ていた。
「何があったの?」
「……俺が」
その先が続かなかった。
何から言えばいいのかわからなかった。説明しようとすると、自分のしたことに言い訳をつけそうだった。
椎名は一度廊下を振り返り、声を落とした。
「何があったか、わからないけど。あの子、泣いてたよ」
尚弥はうなずいた。
「追いかけて」
「でも……」
椎名の眉が寄った。
「俺が行っても、何て言えばいいか」
謝らなければいけない。
それだけはわかっていた。
けれど、謝っても顔を上げてもらえなかったら。もう話したくないと言われたら。
尚弥は床へ目を落とした。
「今は、俺の顔なんか見たくないかもしれないし」
椎名はすぐには答えなかった。
黙っていることに耐えられず、尚弥が顔を上げる。
「あの子のこと、好きなんでしょ」
尚弥は息を止めた。
好き。
その言葉を、自分のこととして考えたことがなかった。
「……何で」
「今日、入口ばっかり見てたから。私が通ったときも、すぐ顔を上げたし」
椎名は窓際の絵を見た。
「それに、あの絵。誰に見せたいのかくらい、わかるよ」
尚弥も額へ目を向けた。
澪が来るまでは、廊下の足音が気になっていた。
来てくれたときは、何を話せばいいのかわからなくなった。
駅へ行くたびに、先にベンチを見るようになっていたのは、いつからだろう。
絵を褒めてくれたから、また話したいのだと思っていた。
けれど、絵の話をしない日も楽しかった。
パンが売り切れていたことも、犬の数がわからなかったことも、澪と話したというだけで、帰ってから思い出した。
もっと一緒にいたかった。
自分と会うことを、彼女にも楽しみにしてほしかった。
尚弥は額から目を逸らした。
好きだった。
いつの間にか、日向澪のことが。
気づいた途端、さっき口にした言葉が、一つずつ戻ってきた。
どうでもいい?
だったら、答えてよ。
描いたときのことくらい覚えててよ。
好きだからといって、言っていいことにはならなかった。
自分が大切に思っているぶんだけ、同じように返してほしいと迫っていた。
澪が何か話そうとしていたのに、それさえ遮った。
「……ひどいこと、言った」
椎名は黙って聞いていた。
「謝りたい。でも、また泣かせたらって」
「だったら、今度はあの子の話を聞いて」
尚弥は椎名を見た。
「うまく言えなくても、途中で決めつけないで」
澪の、ノートを開こうとしていた手が浮かんだ。
ちゃんと読めば、と言っていた。
あの言葉の意味も、尚弥は聞かなかった。
まだ何もわかっていない。
そのことに、ようやく気づいた。
「どっちに行った?」
「渡り廊下のほう」
尚弥はうなずき、扉へ向かった。
入口で振り返ると、椎名はもう道を空けていた。
「こっちは大丈夫だから」
「……ありがとう」
廊下に出ると、離れた校舎から音楽が聞こえた。
渡り廊下の先には、人影がいくつも重なっている。
尚弥はその中に澪を探した。
どんな顔をされるのか、まだ怖かった。
それでも、今度は足を止めなかった。




