第5話 約束の手前
文化祭までの二週間は、思っていたより早く過ぎた。
廊下の壁に、模造紙の看板が増えた。放課後の教室からは、机を動かす音と、誰かを呼ぶ声がいつまでも聞こえていた。
尚弥の鞄には、鉛筆のほかに、油性ペンとガムテープが入るようになった。
「雨宮、こっちの矢印もお願い」
「今、手が汚れてるから、ちょっと待って」
そんな返事をしている自分に、あとから気づくことがあった。
以前なら、呼ばれたことにまず驚いていた。今は目の前の作業を終えてから、顔を上げられる。
風交駅へ行けたのは、数えるほどだった。
一度は澪に会い、ベンチに並んで、坂の下から聞こえる犬の声を数えた。何匹いるのかという話になって、結局わからないまま帰った。
別の日には誰もいなくて、尚弥は描き終えた絵と実際の風景を見比べた。
このままでいいと思っていた。
けれど、絵の中のベンチを見ると、澪がそこに腰を下ろす姿が浮かんだ。
鞄を膝に置き、風で頬にかかった髪を押さえる。尚弥が話しかけると、少しだけこちらに顔を向ける。
別のページに、その姿を描いてみた。
肩の高さも、腕の角度も、思い出すだけではうまく決まらなかった。それでも、消してしまう気にはなれなかった。
次に駅で会ったとき、尚弥はスケッチブックを開く前に尋ねた。
「少し、そこに座っててもらっていい?」
「座ってるけど」
「そうじゃなくて。絵に、描きたくて」
澪は尚弥の手元を見て、それから自分を指した。
「私?」
「嫌なら、いいんだけど」
「嫌じゃないよ。動かないほうがいい?」
「そこまでじゃなくて、普通にしてて」
「普通って言われると、難しいね」
澪は背筋を伸ばした。
いつもと違う座り方がおかしくて、尚弥は少し笑った。
「さっきのほうがいい」
「注文、多くない?」
そう言いながら、澪は肩の力を抜いた。
尚弥は鉛筆を動かした。何度も顔を上げるのが落ち着かなかったが、目を逸らしたままでは描けなかった。
「これ、文化祭の絵に入れてもいい?」
描きかけの姿を見せながら聞くと、澪は紙の上を覗き込んだ。
「あの駅の絵?」
「うん。ベンチに座ってるところを」
澪は少し考えてから、うなずいた。
「いいよ。完成したら、見せてね」
尚弥は短く返事をして、また鉛筆を持ち直した。
その日のうちに、何枚か描いた。帰ってから机に並べ、一番いつもの澪に近いと思った姿を選んだ。
空けていたベンチに彼女を描き加えると、駅全体の見え方が変わった。
尚弥はしばらく手を止めた。自分が誰を見ていたのか、紙の上にまで出てしまった気がした。
澪とは、学校でも時々話した。
会釈だけで終わる日もあった。購買の列で一緒になり、売り切れたパンの話をする日もあった。
けれど、前にした話を続けようとすると、うまく噛み合わないことがあった。
犬は何匹いたと思うかと尋ねたとき、澪は首をかしげた。
尚弥が風交駅のことだと説明すると、彼女は笑って、たくさんいそうだね、と答えた。
その返事を、尚弥は少し気にした。
ただ、それ以上聞けば、自分ばかりが細かいことを覚えていると知られてしまう。
結局、別の話をした。
それなら会話は続いたし、澪も笑った。
*
文化祭前日の午後、尚弥は旧図書室の机に額を伏せた。
裏の留め具を外し、台紙がずれていないか確かめる。
鉛筆画は先週、スケッチブックから切り離して額に収めた。ページを外すときより、今のほうが手に力が入った。
「また開けてる」
椎名が、受付に置く部誌を抱えて戻ってきた。
「右側、隙間が違う気がして」
「さっきも見てなかった?」
「……うん」
尚弥は定規を当てた。
左右の幅は、ほとんど同じだった。
「直すところ、なくなった?」
椎名が尋ねた。
尚弥は返事をしなかった。
絵に手を入れることは、もうやめていた。
草の影を濃くしようとすれば、その隣も気になる。空を塗れば、屋根の下の明るさが変わる。
このままでいいと思ったはずなのに、明日、人に見られると考えると、急に足りないところばかり見えてきた。
「他の人の、見てみれば」
椎名は部誌を机に置いた。
「ずっと自分の絵、見てるからじゃない?」
「見ると、余計に困る」
「なんで?」
「……みんな、ちゃんと描きたいものがあるから」
隣の壁には、色の強い抽象画が掛かっていた。
入口の近くには、自分の家族を描いた作品がある。描き方も、題材も、それぞれ違っていた。
「雨宮くんだって、駅を描きたかったんでしょ」
「そうだけど」
尚弥は裏板を戻した。
「ただ写してるだけって、前に言われたことがあって」
留め具を押さえた親指が、少し痛んだ。
椎名はすぐには答えなかった。
尚弥が額を表に返すのを待ち、絵の前に立つ。
「私だったら、駅名の看板、真ん中に描くと思う」
彼女は紙に触れないよう、端を指した。
「場所がわかりやすいから。雨宮くんの、ちょっとしか入ってないね」
「ベンチまで入れると、看板は切れるから」
「ベンチのほうがよかったんだ」
「……うん」
椎名はうなずいた。
「じゃあ、選んで描いてるじゃん」
尚弥は絵を見た。
何も言い返せなかった。
椎名は、上手いとも、才能があるとも言わなかった。ただ、看板が端にある理由を聞いた。
それには、自分で答えられた。
「掛けるの、手伝う?」
「頼んでいい?」
「うん。今度こそ掛けよう」
尚弥は額を持ち上げた。
壁につけた印に合わせ、金具へ紐を掛ける。
椎名が少し離れたところから左右の傾きを確かめた。
「右、ほんのちょっと上」
「これくらい?」
「そう。いいと思う」
手を離す。
額は、その位置に収まった。
尚弥は二歩下がり、それ以上は直さなかった。
*
クラスの準備を手伝いに戻ると、入口の看板が落ちかけていた。
「下、押さえて!」
尚弥は鞄を机に置き、看板の端を支えた。
上では男子が椅子に乗って、テープを貼り直している。
「もう少し右」
「そっちから見て?」
「いや、俺から……同じ右だろ」
近くで笑い声が上がった。
尚弥も笑って、看板をずらした。
昼から何も食べていなかったことを思い出したのは、ようやく手を離したあとだった。
窓の外には、夕方の光が残っていた。
「雨宮、助かった」
「また落ちそうなら呼んで」
「落ちない方向で考えてよ」
尚弥はうなずき、教室を出た。
手についたテープの粘りを、親指でこすって落とす。
階段を下りたところで、澪が掲示板の前にいた。
手には文化祭のパンフレットを持っている。
尚弥に気づくと、少し目を細め、それから笑った。
「雨宮くん」
「まだ残ってたんだ」
「うん。教室の片づけ、今終わったところ」
澪の袖には、白い紙の切れ端がついていた。
「そこ」
「え?」
尚弥が自分の肘を示すと、澪は袖を見た。
「あ。ずっとついてたのかな」
つまんで取ろうとしても、なかなか剥がれない。
裏に両面テープがついているらしかった。
「引っ張ると、伸びるよ」
「もう引っ張っちゃった」
澪は慎重に紙を剥がし、残ったテープを指で丸めた。
「準備って、本番より長いね」
「本番、一日だし」
「もったいない気がする」
「片づけも、あるよ」
「今は聞きたくなかったな」
尚弥は笑った。
澪も笑ったあと、手元のパンフレットを開き直した。
校内図の載ったページだった。
「美術部って、こっち?」
彼女の指は、新しい図書室の近くを指していた。
「そっちじゃなくて。渡り廊下を渡った先」
「あ、旧図書室か」
尚弥はうなずいた。
この前、来た場所だよ、と言いそうになった。
澪は校内図を目で辿っていた。
尚弥は、口に出しかけた言葉を飲み込んだ。普段使わない部屋だから、地図で見るとわかりにくいのかもしれない。
「絵、もう飾った?」
「さっき」
「そっか。間に合ったね」
「最後まで、額を直してた」
「絵じゃなくて?」
「絵は、直すと終わらないから」
澪は小さくうなずいた。
それから、パンフレットを持つ手に少し力が入った。
「雨宮くんも、そこにいる?」
「午後は受付。十三時から」
「じゃあ、そのくらいに行けたら」
尚弥は顔を上げた。
「待ってる」
言ってから、少し強い言い方だったかもしれないと思った。
澪は、すぐにはうなずかなかった。
開いたパンフレットを見下ろし、親指で折り目をなぞった。
「……行けなかったら、ごめんね」
尚弥の喉に、返事が引っかかった。
「当番、あるの?」
「午前中は」
「じゃあ、午後なら」
そこまで言って、尚弥は口を閉じた。
空いていれば、自分に会いに来る。
そんなふうに決まっているわけではない。
友達と回るのかもしれないし、ほかに見たいものがあるのかもしれない。
「いや。無理にじゃなくて」
「無理じゃないよ」
澪は顔を上げた。
「見たいと思ってる。本当に」
思っていたより真剣な声だった。
尚弥は少し戸惑った。
「……うん」
「でも、ちゃんと約束するのが、ちょっと苦手で」
澪は笑おうとして、途中でやめた。
「ごめん。変な言い方だよね」
尚弥は、どう答えればいいのかわからなかった。
来たくないなら、そう言えばいい。そんな考えが一瞬浮かび、すぐに打ち消した。
見たいと言ってくれたのは、彼女のほうだ。
「時間、決めなくてもいいよ」
ようやく、それだけ言った。
「俺、当番のあとも片づけまでいると思うから」
澪の肩から、少し力が抜けた。
「ありがとう」
尚弥はパンフレットを指した。
「場所だけ、印つける?」
「……うん。お願い」
鞄からシャープペンシルを出し、旧図書室のところを小さく囲む。
入口のある側に矢印を足した。
十三時、とは書かなかった。
紙を返すと、澪は丸のついた場所を見て、丁寧に折り畳んだ。
「雨宮くんの字、絵とちょっと違うね」
「字は書いてないけど」
「じゃあ、矢印」
「矢印と絵、比べる?」
「ちょっと慌ててる感じがする」
確かに、線の先が曲がっていた。
描き直そうかと聞くと、澪は首を振った。
「これでわかるよ」
彼女はパンフレットを鞄へ入れた。
内側には、布張りの小さなノートが見えた。澪の指が一度その表紙に触れたが、取り出さずにファスナーを閉じた。
廊下の向こうから、下校を促す先生の声が聞こえた。
「帰ろうか」
澪が言った。
尚弥はうなずき、並んで昇降口へ向かった。
*
その夜、尚弥は鞄の中を確かめた。
筆箱。文化祭のパンフレット。クラスで使う予備のテープ。
いつも入っているスケッチブックは、机の上に置いてある。
駅の絵を外したぶんだけ、薄くなっていた。
尚弥は最後のページを開いた。
三つの四角は、そのまま残っている。
澪は、あれを少し見ていたかったと言った。
空いたベンチには、自分も座れそうだと言った。
今、その場所には澪が座っている。
今日も、絵を見たいと言ってくれた。
それなのに、行けなかったらごめんね、という一言ばかりが気になった。
尚弥は椅子の背にもたれた。
去年は、誰が自分の絵を見たのか知らなかった。
文化祭が終わり、作品を持ち帰って、机の横に立てかけた。それからしばらく、裏返しにしたままだった。
今年は違う。
誰に見てほしいのか、自分でわかっている。
それだけで楽しみにできればよかった。
けれど、澪が来なかったときのことを想像すると、もう絵の出来だけを気にしてはいられなかった。
携帯電話を手に取った。
そこで初めて、澪の連絡先を知らないことを思い出した。
学校か駅で会えば話せる。いつの間にか、それで十分だと思っていた。
画面を消し、机へ戻す。
明日、会えたら聞いてみよう。
展示を見たあと、時間があれば、クラスのほうにも誘ってみたい。
尚弥はパンフレットを開き、二年二組の場所から旧図書室まで、指で辿った。
途中には、澪のクラスもあった。
その三か所を見比べてから、紙を折り畳む。
鞄に入れたあとで、スケッチブックも重ねた。
必要になるかはわからなかったが、持っていくことにした。




