第4話 絵の中の席
翌週の月曜日、尚弥は旧図書室の窓を開けた。
固くなった鍵を回し、両手で窓枠を押す。隙間から入ってきた風が、足元の埃を動かした。
尚弥は顔を背けて、一度くしゃみをした。
「大丈夫?」
下から椎名が見上げる。
尚弥は踏み台の上でうなずいた。
「窓、開いた」
「そっちより、くしゃみのほう」
もう大丈夫、と答えて、棚の上へ雑巾を伸ばす。
一度拭いただけで、白かった布が灰色になった。
旧図書室は、美術室より少し広かった。
本の大半は新しい図書室へ移され、空いた棚には授業で使う模型や、古い展示台が置かれている。入口の近くには机が積まれ、奥の窓までまっすぐ歩くこともできなかった。
ここを、文化祭までに展示室にする。
最初にそう聞いたときは気が遠くなったが、部員全員で動かしてみると、少しずつ床が見えてきた。
尚弥は棚を拭き終え、踏み台から下りた。
「そこの机、窓際へ寄せるぞ」
顧問の声に、近くにいた男子部員が反対側を持つ。
尚弥も端を持ち上げた。
「せーの」
足並みを揃え、机を運ぶ。
壁際へ置いたあと、男子部員が手を払った。
「これで最後?」
「もう一個」
「見なかったことにしようと思ったのに」
尚弥は笑って、入口へ戻った。
先週までなら、何をすればいいのかわからないまま、誰かに声をかけられるのを待っていたと思う。
今日は、運ぶものがあれば手を出せた。少なくとも、この部屋から早く出たいとは思わなかった。
*
掃除が終わる頃には、窓の外が薄暗くなっていた。
顧問が部屋の中央で、展示の並べ方を説明する。
大きな作品は壁に、小さな作品はパネルに掛ける。机の上には部誌や、制作途中のスケッチも置くらしかった。
「雨宮の絵は、このあたりでどうかな」
示されたのは、入口から見て奥の、窓に近い壁だった。
尚弥はその場所を見た。
色の褪せた掲示物を剥がした跡が、四角く残っている。
「……ここで、いいです」
「額を用意したら、実際に合わせてみよう。作品は明日、途中でも持ってきて」
返事をすると、顧問は次の部員を呼んだ。
尚弥は壁の前に残った。
絵が掛かる位置を、目で測る。
入口から入って、机の横を通って、ここまで来る。
澪だったら、どのくらいの距離で足を止めるだろう。
「そこ、いいね」
椎名が、丸めたごみ袋を持って隣に立った。
「光、入るし」
「うん」
「完成、楽しみにしてる」
何と返せばいいのかわからず、尚弥は壁から目をそらした。
「期待されても、困るけど」
「じゃあ、普通に楽しみにしとく」
違いがわからなかった。
けれど、椎名はそれで話を終え、ごみ袋を広げた。
「雨宮くん、これ押さえて」
尚弥は袋の口を持った。
彼女が集めてきた埃と紙くずを入れるあいだ、さっきの壁を、もう一度だけ見た。
*
翌日の昼休み、尚弥は階段の踊り場で澪に会った。
彼女は友達らしい女子生徒と、購買の袋を持って上がってくるところだった。
目が合い、尚弥が軽く会釈すると、澪も会釈を返した。
「こんにちは」
「こんにちは」
この数日、学校で姿を見かければ挨拶するようになった。
すぐに返ってくるときもあれば、こちらを見てから少し間が空くときもある。
尚弥は、それをいちいち気にしないようにしていた。
自分だって、人に呼ばれてすぐ返事ができないことくらいある。
澪の隣にいた女子生徒が、「先、戻ってるね」と言って階段を上った。
澪はうなずき、踊り場の端へ寄った。
「どこか行くところ?」
「図書室。日向さんは?」
「パン買ってきた。最後の一個だった」
袋の中には、少し潰れたクリームパンが入っていた。
「取れたんだ」
「隣にもっと大きいのがあったから、みんなそっちに行った」
「じゃあ、競争してない」
「気持ちでは、した」
尚弥は笑った。
澪も笑ってから、彼の手元に目を向けた。
「それ、絵?」
尚弥は腕に抱えたスケッチブックを見た。
「うん。部活で見せるから、持ってきた」
「駅の?」
「そう」
澪は小さくうなずいた。
尚弥は表紙の角を親指で押さえた。
ここで別れてしまえば、また次に会ったときに言おうと思う。
その次も、たぶん同じことを考える。
「文化祭に、出すことにした」
言うと、澪が顔を上げた。
「この絵?」
「うん。まだ、直してるけど」
「そうなんだ。見たい」
あまりにすぐ答えが返ってきて、尚弥は続けるつもりだった言葉を忘れた。
「……本番、まだ先だよ」
「うん。知ってるよ」
そうだ。同じ学校なのだから、知っている。
澪は笑いをこらえるように口元を押さえた。
尚弥は表紙の角から指を離した。
「旧図書室でやるんだ。渡り廊下の先」
「あそこ、開くんだね」
「昨日、掃除したから」
「大変だった?」
「机が多かった」
「絵を描く以外にも、いろいろあるんだ」
澪はスケッチブックを見て、それから階段の上へ目を向けた。
「途中の絵って、見てもいいの?」
尚弥は少し考えた。
「今日、放課後に持っていくから。先生たちもいるけど、それでもよければ」
「邪魔にならない?」
「絵を並べるだけ、だと思う」
言ってから、先生に確認しておこうと思った。
澪は袋を持ち直した。
「じゃあ、帰る前に寄ってもいい?」
「うん」
今度は、きちんと返事ができた。
*
澪が来たのは、壁際に仮の展示パネルを立て終えた頃だった。
開いた扉の向こうから、控えめに声がする。
「……雨宮くん」
尚弥は、机に並べた額から手を離した。
入口に澪が立っている。鞄を肩に掛け、部屋の中を見回していた。
「入っていいって、先生が」
「うん。こんにちは」
澪が一歩入ってくる。
奥にいた顧問へ頭を下げると、顧問も軽くうなずいた。
尚弥は机の端に置いたスケッチブックを持ち上げた。
「こっち」
人を案内する声が、少し硬くなった。
澪は空いた机の間を歩いてきた。
尚弥の隣で椎名が台紙を揃えているのを見て、もう一度、澪は小さく挨拶する。
「絵、見に来たの?」
椎名が尋ねた。
「はい。雨宮くんに、見せてもらおうと思って」
「そっか。ここ、椅子使っていいよ」
椎名は近くの椅子を引き、散らばっていた定規を自分のほうへ寄せた。
尚弥は礼を言ってから、澪の前でスケッチブックを開いた。
最後のページが、先に出た。
三つの四角が並んでいる。
「あ」
尚弥は手を止めた。
「これ、見せようと思ってたんだ」
澪はページを覗き込んだ。
「同じ鉛筆でも、重ねたら濃くなるから。この下のやつ、あとで描いてみた」
上の二つを指で示す。
「こっちは、日向さんが塗ったやつ」
澪はしばらく、その四角を見ていた。
「……私の?」
声が小さかった。
尚弥はうなずいた。
「駅で。端だからいいって、俺が」
「あ、うん」
澪は紙へ手を伸ばしかけ、指先を引いた。
「残してくれてたんだ」
「消す理由、ないし」
それから、言葉が続かなかった。
澪は三つ目の四角を見ていた。
笑ってくれるかと思っていた。自分でも描いてみたいと言われるかもしれないと、少し期待していた。
「……こんなの、見せられても困るよね」
尚弥がページをめくろうとすると、澪が顔を上げた。
「困ってないよ」
思ったより、はっきりした声だった。
尚弥の手が止まる。
「ただ、ちょっと見てたかっただけ」
澪はもう一度、二つの四角に目を落とした。
尚弥は開いたまま、待った。
遠くで、パネルの脚を固定する金具が鳴った。
窓から入った風に、机の上の薄い紙が動く。椎名が筆箱を載せ、押さえた。
やがて澪が顔を上げた。
「駅の絵も、見せて」
尚弥はうなずき、ページを戻した。
*
駅の絵は、ほとんど完成していた。
向かいのホームと、屋根。
その端から草が伸び、手前にはベンチの背もたれが入っている。
最後まで迷っていた空には、薄い線だけを残した。
澪は絵を見たあと、顔を近づけた。
それから少し離れ、首をかしげた。
「どうかした?」
「ここ、こんなふうに見えるんだと思って」
「座るところ、少し変えて描いたから」
澪と話すようになってから、一度、ベンチを離れた。
いつも座っている場所を絵に入れたくなって、ホームの端から描き直したのだ。
「この席、空いてるね」
澪がベンチを指した。
「人は、描いてないから」
「雨宮くんが座ってたら、自分で描けないもんね」
「鏡があれば」
「持っていくの?」
「まさか」
澪が笑った。
ようやく、普通に息ができた気がした。
「日向さんなら、そこに人を描く?」
聞くと、澪は少し考えた。
「ううん。このままがいい」
「寂しくない?」
「ちょっと。でも、座れそうだから」
尚弥は彼女を見た。
「誰かが座ってたら、その人の場所って感じがするけど。空いてたら、自分が座ってもいいのかなって」
澪は絵の端を見ながら続けた。
「上手く言えないけど」
尚弥は手前のベンチを見た。
誰もいない場所を描いたつもりだった。そのほうが気楽だったし、人を入れると、風景だけを見ていたときとは違うものを求められる気がした。
けれど、澪はそこに、自分の座る場所を見つけていた。
「変なこと言った?」
「いや」
尚弥は首を振った。
「そのままにする」
「私の言うとおりにしなくてもいいよ」
「じゃあ考えとく」
澪は尚弥を見て、小さくうなずいた。
隣から、椎名が額を一つ差し出した。
「これ、合わせてみる?」
「ありがとう」
尚弥はページを傷めないよう、額縁だけを絵に重ねた。
木の枠で囲むと、見慣れた線が少し遠くなった。
「展示の絵、って感じする」
澪が言った。
尚弥も、同じことを思っていた。
自分の鞄の中にあったものが、ここに掛かる。
知らない人が立ち止まって、何か思ったり、何も思わず通り過ぎたりする。
やはり、怖かった。
でも、もう一度見に来てほしい人が、一人いた。
「文化祭の日も、来てよ」
澪が顔を向けた。
言い直す前に、尚弥は続けた。
「ちゃんと、飾っておくから」
澪は、額の中の絵を見た。
「うん。見に来たい」
隣で椎名が、台紙を揃える手を止めずに少し笑った。
尚弥は気づかなかったふりをして、額を持ち上げた。
澪が帰ったあと、顧問と二人で、その額を壁に当てた。
「この高さでいいかな」
「もう少し、下でもいいですか」
顧問が数センチ下げる。
尚弥は、さっき澪が立っていた位置まで戻った。
ここからなら、無理に顔を上げなくても絵が見える。
「そこが、いいです」
顧問が壁に印をつけた。
尚弥は机へ戻り、開いたスケッチブックを閉じる前に、ベンチの線を確かめた。




