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第3話 傘の内側

雨は、朝のホームルームが終わる頃に降り始めた。

 窓に近い席から順に、教室が暗くなったことに気づいていく。誰かが電気をつけ、別の誰かが、体育は外なのかと声を上げた。

 尚弥は鞄の脇を見た。折り畳み傘を入れるつもりで、玄関に置いたままだった。

 今からでは、どうにもならない。

 放課後までにやめばいいと思いながら、窓の外へ目を戻した。

     *

 二時間目のあと、職員室へノートを運ぶ途中で、澪を見かけた。

 一年の教室が並ぶ廊下だった。

 彼女は掲示板の前に立ち、何枚も張り出されたプリントを見ていた。尚弥の腕には、クラス全員分の英語のノートが載っている。足を止めると、上の一冊が少しずれた。

 日向さん。

 頭の中では呼べた。

 けれど、そのまま通り過ぎそうになった。学校でも会うかもしれないと言ったのは自分なのに、実際に見つけると、どんな顔をすればいいのかわからない。

 澪が掲示板から目を離した。

 こちらを見る。

「……日向さん」

 今度は、声になった。

 澪はわずかに首をかしげた。

 尚弥の顔を見てから、腕の中のノートへ視線を移す。

「はい」

 返事が、思っていたものと違った。

「雨宮。二年の」

「あ……」

 澪の指が、持っていたプリントの端を折った。

「ごめんね。ちょっと、ぼんやりしてて」

「いや」

 尚弥はノートを抱え直した。

 昨日、二人で四角を塗ったことを話そうと思っていた。重ねれば同じ鉛筆でも濃くなる、と説明したかった。

 けれど、ここで急にそんな話をするのは、場違いな気がした。

「それ、職員室?」

「うん」

「重そうだね」

「そうでもない」

 会話が途切れた。

 澪はプリントを胸の前に持ち、何かを待つように立っている。

 尚弥は、もう行ったほうがいいのだろうと思った。

「じゃあ」

「あ、うん」

 彼女の横を通り過ぎる。

 少し進んでから、声がした。

「雨宮くん」

 振り返ると、澪が一歩だけこちらへ近づいていた。

「ノート、落ちそう」

 一番上の一冊が、半分ほど滑り出していた。

 尚弥は慌てて壁際に寄り、身体で支えた。澪がその一冊を持ち上げ、束の真ん中へ戻してくれる。

「ありがとう」

「ううん」

 澪の手が離れた。

 そのあとに何か続く気がして、尚弥は一瞬だけ待った。

 予鈴が鳴った。

 近くの教室から出ていた生徒たちが、廊下を急ぎ始める。

「またね」

 澪が言った。

 尚弥も返事をして、職員室へ向かった。

 無視されたわけではない。

 むしろ、落ちそうなノートに気づいてくれた。

 それでも、駅で会うときとは違った。

 同じ制服を着ているのに、学校にいる彼女は、少し遠かった。

     *

 昼休みの教室では、机を寄せた何人かが、文化祭の案内ポスターを作っていた。

 尚弥のクラスの企画は、来場者が選んだ選択肢によって話の結末が変わる展示だった。

 今年の文化祭のテーマは「人と人を繋ぐ物語」。それに合わせ、教室の中を歩いて、いくつかの場面を辿ってもらうらしい。

 企画を決める話し合いには、尚弥もいた。

 ほとんど聞いていただけだったが。

「雨宮、矢印ってこれでわかる?」

 弁当箱を片づけていると、装飾係の男子が紙を持ってきた。

 尚弥は椅子に座ったまま、広げられた案内図を見た。

「こっちが入口?」

「そう。で、ここで二つに分かれる」

 太い矢印が、途中で文章に重なっていた。

「ここ、少し空けたほうがいいかも」

「文字ずらす?」

「矢印を曲げてもいいと思う」

 男子はペンを差し出した。

「ちょっと描いてもらっていい?」

 尚弥は弁当箱を机の端へ寄せた。

 下書きの線を避けて、細く道筋を引く。分かれ道のところに余白を作ると、左右の行き先が見やすくなった。

「あ、こっちのほうがいい。ありがと」

「……うん」

 紙はすぐに別の机へ運ばれていった。

 そこから、切る場所を相談する声が聞こえる。

 尚弥はペンを返そうとして立ち上がった。

「あの、これ」

「ああ、それ使ってて。まだこっちもあるから」

 別の紙が差し出された。

 尚弥は一度自分の机を振り返り、弁当箱の蓋を閉めた。

 昼休みが終わるまで、矢印を描いた。

 澪のことを考えなかったわけではない。

 ただ、手を動かしているあいだは、朝の返事を何度も思い返さずに済んだ。

     *

 放課後も、雨はやまなかった。

 美術室で駅の絵を広げると、昨日の薄い線が、蛍光灯の下では少し違って見えた。

 尚弥は窓際へ紙を運び、もう一度見た。

「今日は行けないね、駅」

 台紙を抱えた椎名が言った。

「うん」

「写真、撮ってないの?」

「撮ってない。」

「そっか。じゃあ晴れるの待ちか」

 椎名はそれ以上、早く仕上げるようには言わなかった。

 尚弥も、今ある線をむやみに濃くせず、足元の草だけを描き足した。

 作業を終えて昇降口へ行くと、傘立てには数本しか残っていなかった。

 自分の傘はない。朝からわかっていたことなのに、一応、端まで見てしまった。

 庇の下へ出る。

 校門の向こうまで、アスファルトが濡れていた。

 通学に使う駅までは、歩いて十分ほど。

 走れば少しは早い。けれど、鞄の中にはスケッチブックがある。

 尚弥はファスナーが閉まっていることを確認し、鞄を胸の前へ持った。

「走るの?」

 後ろから声がした。

 澪が、靴箱の列の向こうから歩いてきた。片手に紺色の傘を持っている。

 尚弥は鞄を下ろした。

「……小降りになったら」

「今、結構降ってるよ」

 そう言いながら、澪は庇の外へ手を伸ばした。

 すぐに引っ込めて、指についた雨を払う。

「傘、忘れた?」

「玄関に」

「ああ。それ、帰ったらあるのが嫌だよね」

 尚弥は少し笑った。

「役に立たないところにある」

「しかも、ちゃんと用意してある」

 澪は傘の留め具を外した。

 朝は、話しかける相手を間違えたような気さえした。

 今は普通に話せている。

 ほっとしたぶん、さっきまで気にしていたことを思い出して、少し恥ずかしくなった。

「駅のほう?」

 澪が校門の先を指した。

「うん」

「私も。途中まで入る?」

「え、いや」

「走ると、絵も濡れちゃうでしょ」

 尚弥は鞄を見た。

「……いいの?」

「うん。でも、ちょっと狭いかも」

 開いた傘は、二人で入るには大きくなかった。

 尚弥が隣へ立つと、澪は傘を持ち上げた。自分の頭に合わせてくれているのだと気づく。

「俺、持つよ」

「お願い」

 受け取った柄は、少し温かかった。

     *

 校門を出ると、二人は白線の内側を並んで歩いた。

 傘に雨が当たる音で、周りの音が遠くなる。

 尚弥は澪にぶつからないように、肘を身体へ寄せた。歩幅も少し狭くしたが、狭くしすぎて、今度は足が合わなくなる。

「歩きにくい?」

「いや」

「私、もうちょっと速く歩けるよ」

「大丈夫」

 澪がこちらを見た。

 尚弥は前を向いたまま、傘を少し彼女のほうへ傾けた。

「朝、ノート運んでたよね」

「うん」

「間に合った?」

「ぎりぎり。戻ったら先生来てた」

「怒られた?」

「運ばせた先生だったから」

「あ、そっか」

 澪が笑った。

 尚弥も口元を緩めた。

 朝のことを、彼女から話してくれた。

 それだけで、さっきまでの気まずさが、自分一人で作っていたものに思えてくる。

「朝さ」

 言いかけて、尚弥は迷った。

 澪が顔を向ける。

「俺、話しかけないほうがよかった?」

 傘の縁から落ちた雫が、白線の上ではねた。

「どうして?」

「いや。学校だと、困るかなって」

 言葉にすると、思っていた以上に面倒な質問だった。

 二度、駅で話しただけの相手に、何を確かめているのだろう。

「ごめん。変な意味じゃなくて」

「困らないよ」

 澪は足元を見ながら答えた。

「急だったから、うまく返せなかっただけ。ごめんね」

 尚弥は傘の柄を握り直した。

「謝らなくていいけど」

「じゃあ、雨宮くんも」

 顔を向けると、彼女は少し笑っていた。

「さっきから、二人とも謝ってる」

 確かにそうだった。

 尚弥は返事を考え、それからやめた。代わりに短く笑うと、澪も前を向いた。

 その先の交差点で、信号が赤になった。

 道路の向こうには、通学に使う駅の入口が見えた。傘を閉じる人と開く人が、屋根の下ですれ違っている。

 澪はそこを見てから、ふと尚弥の肩へ視線を落とした。

「肩、濡れてる」

 尚弥の右肩が、傘から出ていた。

「少しだから」

「少しじゃないよ。色、変わってる」

 澪は傘の柄に手を添え、二人の真ん中へ戻した。

 そのぶん、自分から半歩近づいてきた。

 袖が触れた。

 尚弥は動けなかった。

「これなら、入れるでしょ」

 澪は信号を見ていた。

 尚弥も、同じところを見た。

「……うん」

 青になるまでの時間が、やけに長かった。

     *

 駅の屋根の下へ入ると、雨音が急に変わった。

 尚弥は傘を閉じ、雫を落としてから澪へ返した。

 彼女の肩は、ほとんど濡れていなかった。自分の制服は右側だけ冷たかったが、思っていたほど気にならない。

「ありがとう。助かった」

「絵、無事?」

「たぶん」

 鞄の口を少し開ける。

 スケッチブックの表紙は乾いていた。

「大丈夫だった」

「よかった」

 澪は傘を畳みながら、尚弥の肩をもう一度見た。

「帰ったら、ちゃんと乾かしてね」

「うん」

 彼女は電車には乗らず、駅前の通りを向こうへ渡るらしかった。

 尚弥が改札のほうを指すと、澪はうなずいた。

「じゃあ、ここで」

「傘、ありがとう」

「それ、さっき聞いた」

 笑われて、尚弥も笑った。

 澪が傘を開く。

 紺色の布に、また雨粒が当たり始めた。

「学校で見かけたら、声かけてもいい?」

 今度は、最後まで言えた。

 澪は傘の下から尚弥を見た。

 一拍置いて、うなずく。

「うん」

 それから、少し口元を緩めた。

「ノートが落ちそうじゃない時にね」

 尚弥は笑って、手を上げた。

 改札を通ってから、鞄を持ち直した。

 スケッチブックの最後のページには、まだ見せていない三つ目の四角がある。

 今日は、その話をしそびれた。

 けれど、そればかり気にしていた朝より、足取りは軽かった。

 ホームへ上がる階段の途中で、制服の右肩に触れた。

 濡れた布が冷たくて、さっき傘の下で袖が触れたことを、また思い出してしまった。

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