第2話 昨日と今日をつなぐ場所
翌朝、尚弥は教室の前で携帯電話を確かめた。
椎名からの返事は、昨夜のうちに届いていた。
『了解。待ってるね』
それだけの短い文だった。
尚弥は画面を閉じ、ポケットにしまった。自分から行くと言ったのだから、今日は行く。それだけのことなのに、椎名の席の横を通るときには、少し緊張した。
「おはよう」
「あ、おはよ」
椎名は鞄から筆箱を出していた。
「今日、先生が会議で少し遅れるって。先に準備してていいらしいよ」
「うん」
「あと、窓側の机、乾いてない作品あるから気をつけて。昨日、私が袖でやった」
彼女は制服の肘を見せた。
小さな緑の染みがついていた。
「……落ちないの?」
「昨日から、落ちてほしいとは思ってる」
尚弥が笑うと、椎名も笑った。
休んでいた理由は聞かれなかった。
自分の席に着いて、教科書を出す。
机の横に鞄を掛けたとき、中のスケッチブックが脚に当たった。
昨日、家に帰ってからも一度開いた。
駅の屋根の下に、明るい部分を残した絵があった。隣に座っていた少女のことを思い出したのは、そのページを見たときだった。
日向澪。
一年生だと言っていた。
一年の教室は下の階にある。昼休みに行けば、会えるかもしれない。
そこまで考えて、尚弥は数学の教科書を開いた。
何組なのかも知らない。
名前を聞いて回る自分を想像すると、それだけで落ち着かなくなった。
昨日、少し話しただけだ。
会いに来られたら、向こうだって困るかもしれない。
始業のチャイムが鳴り、廊下にいた生徒が駆け込んできた。
尚弥は教科書のページをめくった。黒板に書かれたページとは、違っていた。
*
放課後の美術室は、水で洗った筆のにおいがした。
入口で立ち止まった尚弥に、奥の机から椎名が手を振る。
ほかの部員は画用紙を切ったり、展示用の台紙を並べたりしていた。尚弥が入ってきても、会話はそのまま続いている。
「このへん、空いてるよ」
椎名が椅子の上の紙袋をどかした。
「ありがとう」
「先にこれ切るの、手伝ってもらっていい?」
渡されたのは、作品名を書くための厚紙だった。鉛筆で薄く線が引かれている。
尚弥は鞄を置き、カッターマットを引き寄せた。
こういう作業なら、迷わずにできる。
定規を押さえ、刃を引く。細長い紙が一枚、机の上に離れた。
「文化祭まで、あと三週間だっけ」
「うん。作品はその前の週まで。並べ方とか決めるから」
椎名は切り終えた紙を揃えながら答えた。
「展示場所、今年は旧図書室になったんだって」
「今の図書室じゃなくて?」
「うん。渡り廊下の先のほう。普段、机とか入れてるところ」
「あそこ、使えるんだ」
「使えるようにする。来週みんなで」
掃除、と付け加えて、椎名は肩を落とした。
「雨宮くん、背高いから上の棚よろしく」
「そんなに高くないけど」
「私よりは高い」
断る理由もなく、尚弥はうなずいた。
厚紙を切り終えた頃、顧問が入ってきた。
部員たちの机を見て回り、展示する作品が決まった者には、紙に題名を書いて出すよう伝える。
尚弥は筆箱を開いたまま、動けなくなった。
今日ここへ来ることと、絵を出すことは、別だった。
来てしまえば何とかなると思っていたが、鞄からスケッチブックを出すだけでも、手が重かった。
「まだ決めてない?」
椎名が声を落として聞いた。
「……描いては、いる」
「じゃあ、大きさだけ先に決めれば? 展示の場所、どのくらい取るか知りたいんだと思う」
尚弥は紙を見た。
題名の横に、縦と横の寸法を書く欄があった。
そのとき、昨日の澪の声を思い出した。
会えたら見せてね。その絵。
一人には、見せると答えたのだ。
尚弥は鞄からスケッチブックを出した。
中は開かず、表紙の端に定規を当てる。欄に数字を書いてから、作品名のところで少し迷った。
『風交駅』
場所の名前を、そのまま書いた。
自分の名前まで記入すると、消す前に顧問へ渡しに行った。
「風景画だね」
「はい。まだ、途中です」
「うん。進んだら見せて」
顧問は用紙を受け取り、ほかの部員のものと重ねた。
それだけだった。
席に戻ると、椎名が余った厚紙を箱に入れていた。
「駅、描いてるんだ」
「廃駅。坂の上の」
「ああ、あそこ。小学校のとき行ったかも」
椎名は少し考えたあと、箱の蓋を閉じた。
「今日も描きに行くの?」
「時間があれば」
「じゃあ、片づけはやっとく。紙切ってもらったし」
「いや、自分の分はやるよ」
尚弥はカッターの刃を戻した。
机の端の細かな切れ端を集めながら、窓の外を見た。向かいの校舎には、まだ日が当たっていた。
*
坂を上りきったところで、尚弥は足を止めた。
ベンチに人がいた。
鞄を膝に置き、少し前かがみになっている。小道の砂利を踏む音に顔を上げたのは、澪だった。
目が合った。
尚弥が挨拶をしようとしたとき、彼女の視線が一度、彼の手元へ下がった。
鞄から出したまま持っていたスケッチブックを見て、それからまた顔を見る。
「……雨宮くん?」
昨日より、少し慎重な呼び方だった。
「うん。こんにちは」
「こんにちは」
澪は膝の鞄を自分の隣へ寄せた。
「今日も描くの?」
「そのつもり」
「そっか」
座ってもいいのか、少し迷った。
澪が空いたところへ目を向けたので、尚弥はそこに腰を下ろした。
「今日は、遅いんだね」
「部活に寄ってたから」
「あ、美術部?」
「うん」
尚弥はうなずいた。
尚弥は昨日より自然にスケッチブックを開けた。鞄から筆箱を取り出し、膝の上に置く。
「昨日の、少し進んだよ」
ページを向けると、澪は絵を見つめた。
「……見せてくれるんだ」
「見たいって言ってたから」
言ったあとで、押しつけがましかったかもしれないと思った。
澪は一度、尚弥を見た。
何か言いかけたように唇を開き、それから絵へ視線を戻す。
「ありがとう。見たい」
その返事に安心して、尚弥はスケッチブックを二人の間へ寄せた。
澪はホームを見て、絵を見た。
「草、こんなに生えてたんだ」
「描こうとすると、多くて嫌になる」
「全部描くの?」
「さすがに、それは無理」
「一本くらい抜いても、わからなさそう」
「絵の中で?」
「本物のほう」
尚弥は彼女を見た。
「減るまでに暗くなるよ」
「じゃあ、やめとこ」
澪が笑った。
尚弥も笑い、鉛筆を取り出した。
昨日は屋根の下を褒められた。
今日は草だった。
同じところを見てほしかったような、別のところを見つけてもらえて嬉しいような、変な気分だった。
澪は姿勢を変え、ベンチの端へ少し身体をずらした。
板が軋んだ瞬間、肩を跳ねさせた。
「わ、びっくりした」
「そこ、沈むから」
尚弥が言うと、彼女は座面を見下ろした。
「そうなんだ」
「昨日も……」
言いかけて、止まった。
澪が顔を向ける。
「昨日?」
「いや。そこ、古いから。真ん中のほうがいいと思う」
尚弥は鞄を足元へ下ろした。
澪は小さく礼を言い、少しだけ寄った。
昨日も同じ音に驚いていた。
けれど、ベンチのことまで覚えていなくても、おかしくはない。
鉛筆を紙に当てる。
自分は、昨日のことをよく覚えている。誰が何を言って、どこで笑ったのかまで。
彼女も同じだと、勝手に思っていたのかもしれない。
「雨宮くん」
呼ばれて顔を上げると、澪が筆箱のほうを見ていた。
「鉛筆って、そんなに使い分けるの?」
「濃さが違うから」
「これと、これは?」
「そっちは硬い。薄い線を描くときに使う」
「へえ」
澪は手を伸ばしかけて、止めた。
「持ってみてもいい?」
「うん」
渡すと、彼女は鉛筆を指の間で回してから、困ったように笑った。
「持っただけじゃ、わかんないね」
「たぶん、描かないと」
尚弥は最後のページを開いた。
左上に、小さく四角を描く。
「この中、塗ってみて」
「え、ここに?」
「端だから、いいよ」
スケッチブックを渡すと、澪は膝の鞄を隣に置き直した。
四角の内側を、丁寧に塗り始める。
尚弥はその手元を見ていた。
線をはみ出さないようにするせいか、端に行くほど動きが遅くなる。
「そんなに慎重じゃなくても」
「人のだから」
澪は顔を上げずに答えた。
尚弥は口を閉じた。
急に、落書き用に差し出したページを、雑に扱えなくなった。
次に柔らかい鉛筆を渡すと、澪は隣へ自分で四角を描いた。
二つ目は、すぐに濃くなった。
「あ、違う」
「そっちは減るのも早い」
「ほんとだ。もう丸い」
澪は鉛筆の先を眺めた。
返してもらった二本を、尚弥は筆箱へ戻した。
「ごめんね。描く時間、なくなっちゃった」
「まだ少しあるよ」
向かいのホームの影が、さっきより長くなっていた。
尚弥は駅の絵のページに戻り、柱の下に短い線を足した。
*
先に帰ると言ったのは、澪だった。
「もうこんな時間。雨宮くんは?」
「これだけ描いたら」
澪は鞄を持って立ち上がり、制服の裾を軽く払った。
「今日は、ありがとう」
「鉛筆?」
「うん。あと、絵も」
尚弥はうなずいた。
彼女が歩き出してから、聞こうとしていたことを思い出した。
「日向さん」
澪が振り返る。
昨日は名前でいいと言われたけれど、今日はその呼び方が合っている気がした。
「一年の、何組?」
「三組」
「俺、二年二組だから」
言ってから、聞かれてもいないことまで答えたと気づいた。
澪は少し笑った。
「うん。二組ね」
「学校でも、会うかもしれないし」
「そうだね」
澪は鞄の持ち手を握り直した。
「じゃあ、また」
「また」
今度は、遅れずに返せた。
澪が帰ったあと、尚弥は少しだけ絵を描いた。
屋根の下が暗くなり、これ以上描くと昨日残した明るさまで塗ってしまいそうで、手を止める。
帰り支度をしているとき、最後のページが開いた。
二つの四角が並んでいた。
薄いほうは、端に白い隙間が残っている。濃いほうは、少しだけ線をはみ出していた。
尚弥はその下に、新しい四角を描いた。
今度は硬い鉛筆で、さっきより濃く塗ってみる。同じ鉛筆でも重ね方で変わることを、教えそびれていた。
描き終えてから、こんなことをしても、また見せる機会があるとは限らないと思った。
消しゴムには手を伸ばさず、スケッチブックを閉じた。




