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第1話 残るもの消えるもの

六時間目が終わると、教室の後ろに、いつもの顔ぶれが集まり始めた。


「今日、駅前寄ってかない?」

「いいけど、俺、金ないよ」


 笑い声を聞きながら、雨宮尚弥《あめみやなおや》は机の上の教科書を重ねた。

 隣の席の男子が椅子を引き、鞄を肩にかける。机の間を通ろうとしたので、尚弥は自分の椅子を少し前に寄せた。


「ありがと」

「……うん」


 もう一言、何か言えた気がした。

 けれど、相手はすでに友達のほうを向いていた。


 尚弥は、重ねた教科書の角を揃え直した。


 高校二年の秋になっても、こういう短いやり取りのあとに何を続ければいいのか、よくわからない。

 行き先を聞けば、会話になったかもしれない。自分も行っていいかと聞けば、案外、普通に迎えてもらえたのかもしれない。


 そこまで考えて、鞄を開けた。

 底に入っていたスケッチブックの角が、指に当たった。


 僕は美術部に所属している。


 窓の向こうから、運動部の掛け声が聞こえる。

 尚弥はスケッチブックの上に教科書を入れ、ファスナーを閉じた。


「雨宮くん、今日どうする?」


 顔を上げると、椎名が机のそばに立っていた。

 同じクラスで、同じ美術部。尚弥が三日続けて休んでいることに、たぶん気づいている。


「今日は、ちょっと」

「そっか」


 椎名は机の端に手をついた。指に青い絵の具が残っていた。


「文化祭の展示、出す絵が決まったら教えてって。先生が」

「……わかった」

「まだ時間あるから。描きかけでも、持ってきていいと思うよ」


 尚弥はうなずいた。

 椎名が教室を出てから、尚弥は閉じた鞄に目を落とした。

 描きかけなら、いくらでもある。

 誰かに見せたいものが、一枚もないだけだった。


 廊下では、クラスの男子たちが文化祭の買い出しについて話していた。尚弥も装飾係の一人だったが、相談の輪に入る前に、必要なものは決まってしまう。

 自分から聞けばいい。それはわかっていた。


 尚弥は少し迷って、階段へ向かった。


 *


 校門を出ると、駅へ向かう生徒の列から外れ、住宅街の坂を上った。

 いつもの帰り道から二十分ほど遠回りになる。家に帰れば、母に文化祭より模試の話をされるだろう。今日はまだ、その返事を考えたくなかった。


 十月に入ったばかりの風は、日陰に入ると冷たかった。

 坂の途中で制服の袖を下ろす。家が途切れた先に、低い柵と、色の褪せた案内板が見えてきた。


 風交(ふうこう)駅。


 十年前に廃止された駅だった。

 駅舎の入口は板で塞がれているが、短いホームには脇の小道から入れる。線路の一部も撤去されずに残っていて、枕木の隙間から草が伸びていた。


 尚弥はベンチの座面を手で払った。

 端の板が少し下がっている。いつも座る真ん中に鞄を置き、隣に腰を下ろした。


 ここでは、誰かに話しかけるタイミングを探さなくていい。

 スケッチブックを広げたまま黙っていても、不自然ではなかった。


 鉛筆を取り出し、向かいのホームの縁を描く。

 コンクリートの欠けたところ。草の影。屋根を支える柱の傾き。

 目に入ったものを一つずつ線にしていくうちに、教室で何を気にしていたのか、少しずつ遠くなった。


 それでも、空の部分に手を移したところで、鉛筆が止まった。


 ――それって、ただ写してるだけじゃない?


 美術室で言われた言葉だった。

 言った相手は、そのあとすぐ別の絵の話を始めた。尚弥だけが、何か言い返そうとして口を開けないままだった。


 写すだけなら、写真でいい。

 そんなふうに思われているのだろうか。


 紙の上には、目の前にあるものが、それなりに似た形で並んでいる。

 けれど、自分がここで感じている静けさまで描けているかと聞かれたら、わからなかった。


 尚弥は薄く引いた線を消した。

 もう一度描き、また消す。消しゴムのかすだけが膝に溜まった。


「そこ、座ってもいい?」


 声がして、手が止まった。


 ホームの入口に、女の子が立っていた。

 尚弥と同じ学校の制服だった。片手で鞄の持ち手を握り、もう片方の手で、風にかかった髪を耳に寄せている。


「あ……うん」


 尚弥は慌てて鞄を膝に移した。スケッチブックを閉じようとして、間に鉛筆を挟みかける。


「急がなくていいよ」


 女の子はそう言って、ベンチの端に腰を下ろした。

 板が小さく軋み、彼女が肩をすくめる。


「びっくりした」

「端、少し沈むから」

「それ、座る前に聞きたかったな」


 怒っているのかと思って顔を見ると、彼女は笑っていた。


「ごめん」

「ううん。壊してなくてよかった」


 尚弥は鞄を足元に置いた。

 急に、両手をどこに置けばいいのかわからなくなった。


「同じ学校だよね」


 彼女が尚弥の制服を見て言った。


「私、一年。そっちは?」

「二年」

「あ、先輩だった」

「……別に、普通でいいけど」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 言い方だけが丁寧で、尚弥は少し口元を緩めた。


 彼女はそれ以上質問を続けず、向かいのホームを眺めた。

 木の枝が揺れていた。遠くで犬が吠え、少し遅れて、坂の下を走る車の音が聞こえた。


 何か話さなければいけない気がした。

 けれど、彼女は沈黙を気にしていないようだった。


 尚弥が膝の上でスケッチブックを持ち直すと、その視線が動いた。


「絵、描いてたんだ」

「……うん」

「見てもいい?」


 尚弥の指が表紙にかかった。


「まだ、途中だから」

「そっか」


 彼女はすぐに視線を戻した。

 見せて、と重ねて言われなかったことに、ほっとする。


 ほっとしたはずなのに、閉じかけた手は動かなかった。


 向かいのホームと、紙の上のホームを見比べる。

 さっきまで消していた線が、やけに頼りなく見えた。


「大したものじゃ、ないけど」


 尚弥は、彼女のほうへ少しだけページを傾けた。


「いいの?」

「……うん」


 女の子は身体を寄せた。手は自分の膝に置いたまま、黙って絵を見ている。


 長く感じた。

 上手いと言ってほしいのか、何も言わないでほしいのか、自分でもわからなかった。


「ここ、明るいね」


 彼女が言った。


「どこ?」

「屋根の下。暗いところにも、地面の明るいのが映ってる」


 ホームに当たった光が、屋根の裏に淡く返っていた。

 尚弥が何度も薄く塗り重ねたところだった。


「真っ黒にすると、違うから」

「うん。私、今まで気づかなかった」


 彼女は顔を上げ、実際の屋根を見た。それから、もう一度絵に目を落とした。


「綺麗で、優しい絵だね」


 尚弥は返事ができなかった。


 上手いかどうかを聞かれたわけでも、何を表現したのかを説明させられたわけでもない。

 ただ、彼女にはそう見えたらしかった。


「……そんなこと、ないよ」

「私はそう思ったけど」


 困ったように笑われて、尚弥は目を伏せた。


 否定したかったのは、自分の絵だった。

 けれど今の言い方では、彼女の感想まで間違っていることにしてしまう。


「ありがとう」


 言い直すと、彼女はうなずいた。


「どういたしまして」


 少し得意そうな返事だった。


 風が吹いて、紙の端が持ち上がった。

 尚弥が押さえるより先にページが一枚戻り、白い花のスケッチが現れた。


「あ、その花も描いたの?」

「……前に」


 細長い花びらが反り返った、一輪の花だった。何本も伸びる細い線のそばに、描き直した跡が残っている。


「なんていう花?」

「ハマユウ。海の近くで見た」

「へえ。変わった形」

「白いところが、風でばらばらに動くんだ。だから、描きにくくて」


 尚弥はページの角をつまんだ。


「でも、好きなんだね」

「……なんで?」

「描きにくいのに、こんなに描いてるから」


 端に残った、小さな練習の絵を見られていた。

 尚弥は少しためらって、うなずいた。


「うん。好きだよ」


 口にすると、余計に照れくさかった。

 女の子はもう一度その花を見てから、尚弥がページを戻すのを待った。


 鉛筆を握り直す。

 屋根の下の、さっきまで消していた場所に、今度は線を残せそうな気がした。


「続けていい?」

「もちろん。邪魔してごめんね」

「邪魔では、ないけど」


 そこまで言ってから、尚弥は紙を見た。

 隣で彼女が笑った気配がした。


 *


 何本か線を足すあいだ、彼女は静かに待っていた。

 時々、尚弥の手元から向かいのホームへ目を移している。見比べられていると思うと緊張したが、不思議と、もう隠したくはならなかった。


「よく来るの?」


 尚弥から話しかけると、彼女は顔を向けた。


「ここ?」

「うん」

「たまに。小さい頃、お父さんと来たことがあって」

「電車が走ってた頃?」

「そう。そっちは?」

「俺は、なくなってから」


 彼女は草に埋もれたレールを見た。


「じゃあ、電車が来ない駅を描いてるんだ」

「来ないほうが、描きやすいし」

「人も来ない?」

「……そう思ってた」


 彼女は一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。


「ごめん。来ちゃった」

「いや、そういう意味じゃ」

「わかってる」


 尚弥も、少し笑った。

 知らない相手と話していて、こんなふうに言葉が続いたのは久しぶりだった。


「絵以外にも、何かする?」

「特には」

「私は、バイオリンを少し」

「すごいね」

「まだ音も聴いてないのに?」


 尚弥は鉛筆を止めた。


「……確かに」

「でも、弾けたら楽しいよ。難しいところ、たまたま上手くいくだけでも」


 それは、少しわかる気がした。

 紙の上の線が、思った場所に引けたとき。

 誰にも見せなくても、もう少し描いていたくなる。


「それは、絵もそうかも」

「じゃあ、一緒だね」


 尚弥はうなずいた。

 彼女は足元の小石を靴先で避け、それから腕時計を見た。


「そろそろ帰らなきゃ」


 立ち上がると、ベンチがまた軋んだ。

 今度は驚かず、鞄を肩にかける。


 尚弥は開いたままのスケッチブックを見下ろした。

 引き止めてまで話せることは、何も思いつかなかった。


「ねえ」


 声をかけたのは、彼女のほうだった。


「名前、聞いてもいい?」


 尚弥は顔を上げた。


「雨宮。雨宮尚弥」

「雨宮、尚弥くん」


 彼女は、確かめるように繰り返した。


「私は日向澪(ひなたみお)。ひなたに、さんずいの澪」

「……日向さん」

「うん。よろしくね、雨宮くん」

「……よろしく」

 今さら挨拶をするのも、少し変な感じがした。

 絵のことも、花のことも話したあとで、ようやく互いの名前を知った。

 

 尚弥が膝の消しゴムのかすを払っているあいだ、澪は鞄から小さな布張りのノートを出した。何かを短く書き込み、ペンと一緒にしまう。


「それじゃ、雨宮くん」


 澪は手を上げ、ホームの入口へ歩き出した。


 このまま帰れば、次に会うのは学校かもしれない。

 廊下ですれ違っても、自分は声をかけられるだろうか。彼女が友達と一緒だったら、たぶん、気づかなかったふりをする。


「また」


 思ったより大きな声が出た。


 澪が振り返る。


「また、ここに来る?」


 問いかけてから、尚弥は鉛筆を握ったままだったことに気づいた。指先が黒くなっている。


 澪は少し考えるようにしてから、笑った。


「来られたら。雨宮くんは?」

「たぶん」

「じゃあ、会えたら見せてね。その絵」


 尚弥は小さくうなずいた。


「……うん」


 澪の足音が、小道の向こうへ遠ざかっていった。

 姿が見えなくなってから、尚弥はスケッチブックに目を戻した。


 まだ、空を描き終えていなかった。


 携帯電話を取り出し、椎名とのメッセージ画面を開く。

 明日は部活に行く。

 そう打って、少し考え、最後に「と思う」をつけた。


 見直してから、その三文字を消した。


 送信した携帯電話を鞄にしまい、尚弥はもう一度鉛筆を持った。

 屋根の下の明るさが消えてしまう前に、もう少しだけ描いておきたかった。

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