2.秋実の宴
「雪花さま? お仕度いかがでしょうか」
櫛で銀白の髪を撫でていた雪花は、襖の向こうから聞こえてきた声に手を止めた。
「もう終わるわ」
「開けてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
短く返事をすると、そっと襖が開き、琴乃が顔を覗かせた。そして、雪花を一目見て口元を緩ませる。
「まあ! 雪花さま、とてもお似合いですわ」
朗らかに笑う琴乃とは対照的に、雪花は口を閉ざして黙り込む。
褒められても何と返したらよいのか分からないし、そもそも自分の良さが理解できない。
目元にはいつもより濃い目に桃色をのせ、紅も赤みがくっきりと出ている。
目前の鏡には、普段よりほんのり濃い化粧をした自分が映った。琴乃が施してくれたが、見慣れない姿に戸惑ってしまう。
「新しい打掛の色味もお肌によく合っていますね」
今日のために新調した打掛。澄んだ空気の冬を連想させるような淡い水色の掛下に、打掛は白地に金色の糸で雪花が舞うように描かれている。淡い寒色の色味は、色白な雪花にとても良く似合っていた。
しかし、どんなに着飾って美しくなろうとも雪花本人は何も変わっていない。相変わらずのすんとした表情に、必要最低限しか動かない唇。普段と同じだ。
「そろそろ参りましょうか」
琴乃が優しく声を掛けるが、雪花は動かない。じっと鏡を見つめては、数日前の日乃子との茶会のこと、それから初めて会ったあの人とのやりとりを思い起こしていた。
(また些細なことで気持ちが揺れ動いてしまったら……)
あの純粋な目に見つめられ、優しい言葉をかけられて動揺しないわけがない。
あの時はすぐに立ち去り、事なきを得たが、今日ばかりはそう上手くはいかないはずだ。大勢の人が集まる場で、感情を抑えてやり過ごすのは毎回参ってしまう。立ち上がるのが億劫極まりない。
「雪花さま?」
「……行かなくてはいけないのよね」
蚊の鳴くような声で呟く。顔には全く出ていないが、雪花が不安に溺れていることが長く一緒にいる琴乃には分かった。
「お姉さま……」
琴乃は不安そうな雪花の肩に手を載せた。雪花の身体はとても冷たく、緊張なのか肩にものすごい力が入っていた。それを和らげるように、琴乃は優しくさする。
「大丈夫です、お姉さま。何かあればすぐにお助けしますから、何も心配いりませんよ」
「琴乃……」
「さあさ、この妃象徴の簪を挿して……これで完璧ですね」
真珠の簪を雪花の頭にさした琴乃は、安心させるように、にっこり笑って見せた。
琴乃だって気の進まない雪花を無理に連れ出したくはないはずだ。だが、こればかりはどうしようもない。
妃の務めなのだから。
「では参りましょう。秋実の宴へ」
天華宮では年に四回、中庭で大きな宴が催される。
花見の宴、星華の宴、秋実の宴、白雪の宴。
帝をはじめ皇族と妃たちが広い庭に集まり、季節の移ろいを感じながら芸と食事を楽しむ大規模な宴会。
ここでの一番の見ものは、皇后候補者である妃たちによるおもてなしだ。
前回の星華の宴では、時雨殿の妃、雫が見事な生花を披露し、春に行われた花見の宴では、日乃子が得意の舞を踊っていた。
このように、毎回の宴で一人ずつ自身の得意なことを華やかに披露する。完成度、美しさが高ければ高いほど、その妃への帝の関心が高くなり、必然的にお通いも多くなる。
要するに帝に気に入ってもらう可能性を上げるために力を入れるべき催しであった。
だから皆、自分に割り当てられた宴が近づくと、そわそわしだし、準備に余念がない。
……雪花には関係のないことだが。
雪花は前回白雪の宴にて、琴を披露したが場は静まり返り散々だった記憶がある。
普段の立ち居振る舞いが災いし、いくら美しい音を奏でても、それを褒め称える者はいなかったのだ。皆、雪花を腫れ物を扱うような目で見ていた。仕方のないことだが、少し虚しい気持ちになったのも事実。
今回の秋実の宴は、香風殿の夕凪が披露すると風の噂で聞いていた。
夕凪は、皇后候補の中で最も年若い妃で、齢十六のまだあどけなさが残る可愛らしい妃だ。
(……今日は何もないと良いのだけれど)
人が大勢いるところで目立つことは避けたい。端の方でひっそりと何事もなく終わらせたい。そう願わずにはいられなかった。
雪花の気持ちとは裏腹に、外は澄み渡る秋晴れで暖かい。
青空の下に、大きな赤い毛氈が敷かれる。
紅葉が見頃な天華宮の中庭は、帝の側仕えや各宮殿の侍女たちが早朝から庭を行き来し、一段と賑やかだった。
帝が座る金の二畳台を上座に、黄緑、青、橙、白の妃たちの簪と同じ色の二畳台が中央に向き合うように並べられる。
そして、帝の座席の正面、妃たちを挟んだ向こう側には、他の皇族の席が用意されていた。
会場に近づくたびに、雪花の足取りは重くなる。
「大丈夫ですか?」
固くなる雪花に、琴乃は問いかけた。
「えぇ」
雪花は前を見据えてはっきりと告げる。しかしその声色は不安気に揺れていた。
(大丈夫。いつものように振る舞えば、やり切れるはずだわ。大丈夫、落ち着いて)
息が詰まりそうな気がしたが、気のせいだと言い聞かせ背筋を伸ばした。
大勢の人がいる場で感情を表すなど言語道断。
少しの気の緩みが、誰かを傷付ける未来に繋がってしまうのだから、感情のない妃を演じ切らなくては――
「まぁ、雪花さま! ごきげんよう」
声の方に首を捻ると、にこやかに笑う日乃子が立っていた。
年四回の特別な日ということもあり、日乃子の今日のお召し物も一段と豪華だ。
髪に飾られた黄緑色の宝石がついた簪と同じ色の打掛には、煌びやかな黄色と白の花が舞い踊っていた。
その華やかさは日乃子の魅力をより引き立てる。
あの日和殿での茶会以降会っていなかったが、日乃子は、今日も今日とて柔らかい笑みをこちらに向けていた。
思わず扇子を握る手に力が入る。
「……ごきげんよう、日乃子さま」
「先日はありがとうございました」
「いえ」
「また私の宮殿に来て下さると嬉しいわ。雪花さまとのお茶はなんだか和みましたから」
「……機会があれば」
「ふふ。ではまた後ほど」
日乃子は可愛らしい笑みを残して、立ち去った。
ただ、心の中にじわじわと暖かいものが広がっていく。
(日乃子さまはなんて優しい方なんでしょう。こんなわたくしをまた誘って下さるなんて)
「雪花さま……?」
雪花はその気持ちが落ち着くまで、琴乃の声に反応できなかった。
それに、雪花は気付かなかった。この日乃子とのやりとりを見られていたことに。




