7
数日前。
「十三年ぶりか……」
駕籠から降りた一人の男が、ぽつりと呟いた。
顔を隠すように黒い布を纏った男は、目前に建つ天華宮入り口の門を凝視する。
天華宮の外観はあの頃から何も変わっていないように見えるが、この重たい門の先で待っている現実は大きく変わっているのだろう。
今通ってきた天華国の中心部の光景を思い出す。
一見、平和な華やかな通りに思えた。しかし、一歩入った細道に見えたのは、やせ細り壁にもたれる人や丸まって身体を横たえる人。
(私のいない間にこんなに国内で貧富の差が生まれていたとは)
青空が広がっているが、風はやや冷たい。風の動きに合わせて黒い布が大きく揺れた。
それは、まるで男の動揺している心を表しているようだった。
だが、ここで怯んではいけない。自分にしかできない役割を果たす為にここに来たのだから。
男は拳を作り固く握った。
(なんとかしなくては。私がこの手で)
大きく息を吸い込み、気を引き締めた男は門前に立つ役人に歩み寄った。
黒ずくめのいかにも怪しい男の風貌に、門番たちは顔を顰め、手にしていた槍を構え始めた。
「どちらさまでしょうか?」
「こちらは許可を出された者しか立ち入ることはできません」
門番は敵意が剥き出しだった。それもそうだろう。こんな怪しい人を高貴な方が住まう所に簡単に入れるわけがない。分かってはいるが、極秘でここに来ている為、堂々と名乗ることは避けたかった。
どのように伝えるべきか考え込んでいると、その沈黙が疑われ、さらに険しい顔を向けられた。
「お引き取り願います。中にお入れすることはできません」
「……敦矢殿に用があるのですが」
男の口から出た高官の名に門番たちは顔を見合わせた。
「失礼ですがお名前を……」
不思議そうに問われ、返答に困っていると、鈍い音を立てながら内側から門が開いた。
その先に見えた人物に、男は安堵する。
「あ、敦矢さま……!」
驚いた門番は、槍を引っ込め深々と頭を下げた。敦矢と呼ばれた初老の男は、門番たちの間をゆったりとだけれどもしっかりした足取りで通り、男の目の前にたどり着くと跪いた。
昔と変わらない、丁寧な所作。
「お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです。――春陽さま」
「は、春陽、さま……?!」
その名に、ぴん、と空気が張り詰めた。門番たちは目を見開き、布で隠れた男の顔をまじまじと見る。
「敦矢殿、久しいな。そなたも元気そうで良かった。……それと色々と助かった」
「いえ、こちらの方こそ突然申し訳ございません。ご無事で何よりです」
敦矢の細められた目を見て、春陽は胸がいっぱいになった。無事に戻ってこられた実感がひしひしと湧いてくる。
「中に参りましょう。あなた様の部屋はご遊学なされた十三年前からあのままになっておりますから」
「何から何まで感謝する」
「もったいなきお言葉です」
呆然とする門番を取り残し、二人は颯爽と天華宮に足を踏み入れた。
天華宮内は十三年前とさほど大きく変わっていなかった。ふと幼少期のことを思い出し懐かしくなる。
しかし、やはり雰囲気はどこか違う。
父が帝だった時の温かみを帯びた空気感は完全に消え去り、冷たい。
回廊を歩く春陽を侵入者とでも言いたげな表情で見つめ、声を顰めて話をする侍女の姿が多かった。
春陽の自室はあの時のままだった。
茶色い文机も二畳台も、まるでここだけ時が止まっているかのような感覚。
ほこり一つ落ちていないところを見れば、春陽が不在でも掃除をこまめにいてくれていたことが分かる。
「さて、それでは色々と話してもらおうか」
黒い布を外し、二畳台に座り込んだ春陽は敦矢と向き合った。密通で大まかな現状は知っているが、まだまだ情報は足りない。
「ずいぶんと雰囲気が変わったな」
「えぇ。私も長年こちらにいますが、近頃の天華宮ほど壊れた時代を知りません。ひどいものです」
「それはやはり兄上が?」
「……主上はご自分の感情を第一にお考えになるところがございます。他の者や民はどうだって良いのです」
「……そうか」
「不要ならば切り捨てる。関係がなければ放っておく。それが今の天華宮にございます」
「このまま兄上のところに行っても構わないか?」
敦矢の顔は曇り、なにやら口籠る。
「なにか問題でもあるのか?」
「問題だらけでございます。今は宴会の真っ只中でございますから、お伺いするならば時間を空けてからの方が良いかと」
信じられない言葉に春陽は盛大にため息をついた。
国の頂点、最高権力者としての責務も果たさず昼間から宴会など嘆かわしい。国が、天華宮が傾き出すのも頷ける。
(やはり、私がなんとかしなくては。父上が残した大切なこの国を守らなくては)
その為にここへ戻ってきた。
十三年間好き勝手やってきたこの国の最高権力者をなんとかせねばならない。
国の安定のため、国民の平和のため。
帝を止め、国を立て直すことができるのは――同じ血筋を持つ自分にしかできないことなのだから。
(もう十三年前のようなひ弱な自分ではない)
春陽は強く手を握りしめた。
守りたいものをこの手で掴んで離さないようにしよう。
そう心に誓った。
それから春陽は寝る間も惜しんで不在にしていた十三年分を埋めるように天華国、それから天華宮のことを調べ始めた。
敦矢の言っていた通り、やはり国の政が傾き出していることは容易に分かった。
読んでいた書簡を閉じ、宙を仰ぐ。
(なんてこと。これでは亡くなった父上に申し訳が立たないではないか)
息詰まりそうになった春陽は自室を出て秋めいた庭を眺めた。
その時、本当にたまたま一人の女性の横顔が目に入った。
俯きがちで顔まで見えないが、銀白の美しい長い髪と白い打掛から目が離せない。春陽の前を横切った彼女は庭の端に咲いていた白い花の前まで来ると、しゃがみ込んで花を摘み出した。
優雅な動きに目が釘付けになる。
(彼女はどこかの宮殿の妃か?)
着ている衣装がただの侍女ではないことが見て分かる。春陽の足は自然に彼女の方に向いていた。
(なぜ妃が自ら花を摘んでいるんだ? 普通なら侍女に頼みそうなことだが)
疑問に思いながら声をかけると、ゆっくりと顔が上がった。
雪のような白い肌に、天色の瞳。それから形の良い薄桃色の唇。
まるで雪の妖精のような姿に春陽は目を奪われた。
突然声をかけられて驚いたのか、彼女は抑えめな声で返答し、すぐに視線を逸らしてしまった。
澄んだ空気のような聞き心地の良い声。初対面なのに、彼女の全てに目が奪われる。
薄く笑い淡々と答える彼女に春陽は違和感を感じた。
凛とする姿勢が美しい妃だが、それはどこか冷たく、触れてはいけないような空気感を醸し出していた。
雪花と名を名乗った彼女は、花を摘み終えると言葉少なにすぐに立ち去った。
(雪花殿、か。彼女からは温度が感じられない。まるで人ではないようだ)
頭の中に彼女の存在が大きく濃く残っていく。
春陽は雪花の後ろ姿が見えなくなるまで庭に佇むのだった。




