10
分厚い襖を大きく開いて入ってきた春陽は、雪花や部屋を見るなり目を見開いていた。
(この悲惨な状況を春陽さまにお見せしたくなったわ……)
春陽を傷付けたくない。
怖がられたり、軽蔑の目を向けられたくない。
春陽にそんな風に見られたらと思うと胸が苦しくて仕方がなかった。
だが、安堵を感じたのも確かで。雪花の身体からは力が抜けて重力のままに床に倒れそうになった。
刹那、大きな身体が雪花を包み込む。
「大丈夫。雪花殿は何も悪くない」
温かい手が背中を撫でる。耳元で囁かれる声は優しくて、雪花の目からはまた涙が流れた。
それは今まで流れていた恐怖や不安ではない、あたたかい涙だった。
「……あの、琴乃は……?」
涙で顔が濡れていることもお構いなしに、雪花は上を向き、春陽を見つめた。
春陽は頬に伝う涙を拭いながら困ったように笑う。
「今別の部屋で医官に診てもらっています。意識もあるから少し休めば大丈夫だと」
「……良かった」
琴乃の無事が分かり、雪花はほっと息を吐いた。
「本当にあなたは優しい方ですね。自分もこんなに冷えていると言うのに」
そう言いながら春陽は雪花をそっと抱き上げた。
「……え? あ、あの……!」
「暖かい部屋に移動しましょう」
「いや、え、あの……」
戸惑う雪花に構わずに、春陽は六花殿を出た。
堂々と歩く春陽に抱かれる自分。手や顔が真っ赤になりみっともない姿を誰かに見られたくなくて、雪花は着物の袖で顔を隠した。
「春陽さまがお連れしているのは雪花さま?」
「なぜ抱き抱えられているのです?」
ざわざわとおそらく天華官女と思われる女人たちの囁きが聞こえ、雪花は身を固くする。
そんな雪花を守るように春陽は抱きしめる力を強め、耳元で囁いた。
「大丈夫」
ゆらゆら心地良い揺れと温かみに雪花の心は落ち着きを取り戻していた。
春陽はある一室に到着すると、敷いてあった布団に雪花を下ろした。
「少し横になって下さい。疲れたでしょう」
「……」
若干の疲労はあるものの致命的ではない。それに、こんなに迷惑をかけてうかうかと寝てもいられず、雪花は身体を起こして辺りを見回した。
そこは品のある部屋だった。物は少なく落ち着いる。だが、金色地に大きな白い菊の花が描かれた襖や床の間に飾られた生花はとても豪奢だ。
雪花が座っている布団も分厚くふかふかで高価なのが分かる。
「……ここは……?」
あまりの豪勢な部屋に雪花は背筋が伸びた。
「ここは私の部屋です。心配しなくても人は来ません」
春陽は行灯に火を灯しながら答える。
「……ご迷惑をおかけしました」
雪花は深々と頭を下げた。色々な感情が混ざり合い、春陽の顔が見られない。春陽は静かに雪花の側によると、肩に紫色の羽織りを掛けた。
「迷惑だなんて思っていません。身体は大丈夫ですか?」
「……はい」
行灯の中の火が揺らめいて、部屋をほんのり明るくする。その火をぼーっと見ていると、いやでも先程のことが思い出され、目が潤んでくる。
「雪花殿?」
優しい声色が今の雪花にとっては痛い。
自分に優しくすると、その人が不幸になってしまう。
自分だけが傷付くなら我慢できる。しかし、自分を思ってくれる他人が傷付くのは胸が張り裂けそうになるのだった。
(ここで泣いてしまえばこの部屋も……)
――氷でいっぱいになってしまう。
雪花は涙を見せまいと、両手で顔を覆った。
(泣いては……だめ)
ぐっと堪えるつもりが、じわじわと涙が滲み出る。
指の隙間から涙がこぼれ落ちそうになった時、縮こまっていた雪花の身体は再び大きな身体に包まれた。
「……っ!?」
「泣くことは悪いことではありません」
「で、ですが……」
雪花は言葉に詰まった。
感情を素直に出すことは悪いことではない。だが、雪花が感情を出すことは誰かの不幸に繋がってしまうのだ。
「何かあっても私が受け止めましょう」
春陽の細い指が、雪花の頬に触れこぼれ落ちる涙を優しく拭う。
雪花はそこではっとした。
雪花から流れる涙が氷の粒になっていないのだ。それどころか部屋の空気も冷えずに穏やかなまま。
(これは一体……)
潤んだ瞳を春陽に向ける。春陽は優しく雪花を見つめていた。
「雪花殿、私はあなたのことをもっと知りたい。そしてあなたに寄り添いたい。あなたの心の声に気付き手を差し伸べられる人でありたい」
「……春陽さまはどうしてそんなにお優しいのですか?」
春陽の優しい手が雪花の頬に触れた。
「私は優しい人間ではありませんよ。ですが、雪花殿だから優しくしたいと思います」
雪花は思わず、春陽の胸に顔を埋めた。春陽の心音が雪花の固まった身体や心をほぐしていく。
感情を出しても氷の力が発動しないのは初めてだった。驚きと共に安心が雪花の心を占める。
雪花は泣いた。久しぶりに思い切り泣いた。
はしたないくらい感情のままに泣き続ける。その間、春陽は何も言わずにふんわりと雪花を抱きしめてくれた。
流れ出るのは周囲を凍らせてしまう冷たい涙ではなく、ほんのりあたたかい春の小川のような涙だった。
◇◇◇
「どうしてっ、どうしてこうなるの……!!」
「ゆ、夕凪さま……」
夕凪の悲痛な叫びが、香風殿に響き渡った。
周囲の侍女たちは夕凪の背を撫でたり、涙を流したりと反応は様々だったが、誰もが悲しみに打ちひしがれていた。
(嘘よ、こんなの…… 嘘に決まっている)
自分のお腹にそっと手を当てる。
数週間前に知った懐妊。これで自分が、天華国の女人の頂に立てると喜びを爆発させたあの頃が懐かしい。
しかし、今ここにはもう何もないのだ。そう、何も。
異変を感じたのは三日前。
前日に帝と夕食を共にし、目が覚めた時に腹部に痛みを感じた、
初めは食あたりか食べ過ぎかと思われたが、痛みは増すばかりで、耐えられず医官に診てもらって言われた衝撃の言葉。
――赤子の心拍が止まっております。
目の前が真っ暗になり、音が消えた。
十分に注意を払って生活をしていたつもりだった。何としてでもこの国の頂きに立ちたくて安静にしていたつもりだった。
それなのに、だ。
侍女たちは私のせいではないと励ましの声をかけてくれた。赤子は生まれるまで何が起きるか分からないと。だが、そんなもの耳に入らなかった。
泣いても泣いても涙は枯れない。辛くて仕方がない。
涙を流し続け夜が更けた時、夕凪は医官と筆頭侍女の会話を耳にしてしまった。
「医官殿、夕凪さまの赤子はなぜ…… 私どもに不手際があったのでしょうか?」
「いいえ。そんなことはありません。赤子は生まれるまでどうなるか分からないものです。……が、一つ考えられるとしましたら、過度な心労は赤子を流す原因にもなりますゆえ」
(過度な心労……)
ごくりと唾を飲み込んだ。
精神が追い詰められるような思いはしていない。侍女も尽くしてくれるし、帝だって大切にしてくれる。
心労など感じていない。
そう思おうとした。
けれど、考えてみればここ数日は心穏やかではなかった。
せっかく用意したものもことごとく交わされた秋実の宴。
その後の日乃子との口論。
そしてその腹いせに侍女に頼んで日長石のかんざしを日和殿に隠させたのに、思ったより大事にはならなかった。
——もっと傷付けば良かったのに。
あの女のことを考えるだけで、腹の底から苛立ちが込み上げてくる。
(……そうだわ)
夕凪の中で、何かが繋がった。
脳裏に、つんと佇む妃の顔が浮かんだ。
(私の子が流れたのは、あの妃のせい)
夕凪の瞳が揺れる。
(日和殿の妃共々痛い目に合わせたと言うのに、まだ足りない……)
許せない。あの女に制裁を下さないと気が済まない。
夕凪のその目は鋭い刃のようになっていた。




