第九十九回:新人同心の赤ん坊
冬。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」があった。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
そろそろ雪が降る頃合いだった。
夜も更け、冷たい風が吹き、客足が途絶えた。
「そろそろ終いか」と店主が思った時。
「邪魔するよ……」
ゆっくりと暖簾が上がった。
そこには「新人同心」が立っていた。
久しぶりの来店だった。
紋付ではなく、普段着と思われる着流しだった。疲れた顔をしていた。
「いらっしゃい。何にしましょう」
店主の声に、新人同心がゆっくり答えた。
「それじゃ……天ぷら、一つ」
店主は、いつもの手つきで蕎麦を一束、鍋に入れた。
疲れ切っている新人同心に、店主は思わず声をかけた。
「……だいぶ、お疲れのようで……」
新人同心は答えた。
「……さっき、ようやっと、赤子が寝てくれてね……」
店主の目が見開かれた。
「おや!旦那、いつの間に!……しばらく見なかったのは……」
新人同心は言葉を継いだ。
「……赤子が生まれて、ちょいと忙しかったんでさぁ……」
「これはこれは。おめでてぇことで」
新人同心は頭を下げた。
「……伝えるのが遅くなって、申し訳ない……」
「そんなことは気にせんでいいですよ。あぁ……めでてぇ。本当にめでてぇ……」
店主は、この「新人同心」が、初めて蕎麦を食べに来た時のことを思い出していた。
元服したばかりの、ほんの若造で、緊張していた、あの姿。
今、目の前にいる青年は、その面影は残っていたが、もう立派な人の親だった。
店主の顔が自然と綻んだ。
「はいよ。天ぷら、お待ち」
「店主……天ぷらが二つ乗ってるが……」
店主は笑顔で答えた。
「祝いの天ぷらでさぁ。あっしにはこのくらいのことしかできませんが、どうぞ召し上がってくだせぇ」
新人同心は箸を取った。
椀を持ちあげ、出し汁を啜った。
「……美味い……染みる……」
新人同心は蕎麦を啜る。かき揚げを齧る。一口ごとに、その顔に生気が戻ってきた。
食べ終わる頃には、いつもの「新人同心」がそこにいた。
「……助かりました。美味しかったです。ありがとうございます」
新人同心は頭を下げた。いつもの笑顔がそこにあった。
「また、いつでもいらしてください。赤子が眠ったら」
店主は微笑むのだった。
江戸の冬風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




