第百回:文化十三年。師走(最終話)
文化十三年。冬は師走も終わりの頃。
江戸は日本橋。夜半の橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
いつも通りに、「清吉」の店主は、蕎麦を茹でていた。
手早く、茹で上がった一人前の蕎麦を引き上げると、湯切りをした。
椀に蕎麦を開け、出し汁を注ぐ。
注文に合わせて、かけなら刻み葱、花巻はちぎった海苔、天ぷらにはかき揚げをそれぞれ乗せた。
「はいよ、お待ちどう」
店主は、客たちに蕎麦を差し出した。
客たちは、蕎麦の椀を受け取った。
同時に蕎麦を啜る。
「……ああ……美味い……」
異口同音で、客たちの感想が漏れた。
八丁堀が暖簾を上げた。
「天ぷら、あるかい?」
「あいよ。天ぷらね」
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
八丁堀は呟いた。
「……今年も色々あったな……」
店主はその呟きに応える。
「さいでさぁね……なんか、あっしは、今年で、やることはやり切った。って思いがありましてね……」
店主は、あの「若者」を思い出していた。「笹屋」で元気にやっているだろうか、と。
八丁堀は言葉を返した。
「随分と寂しいことを言うねぇ。まだまだ隠居する歳でもなかろう。隠居するなら俺が先だ」
店主は茹で上がった蕎麦を湯切り、椀へと開けた。
「……そうでさぁねぇ……確かにそうに違ぇねぇ」
二人は笑うのだった。
椀に出し汁を注ぎ、かき揚げを乗せた。
店主は、八丁堀に天ぷら蕎麦を差し出した。
八丁堀は蕎麦を啜った。かき揚げを一口齧る。
「……ああ……美味い……」
先ほどの客と同じ言葉を、八丁堀は呟いたのだった。
八丁堀が帰宅したのち。
店主は今年を振り返っていた。
生まれたばかりの新人同心の赤ん坊。
店主から、蕎麦の技術を受け継いだ若者。
変わらず訪れてくれる常連客たち。
「これから」の人が、店主の周りにはいた。
「清吉」は、まだまだ店を畳める状況ではなかった。その理由もなかった。
――来年に向けて、もうひと頑張りするかね……
店主は、そう誓い、夜空を見上げた。
冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
屋台を畳む頃、雪がパラリパラリと降り始めた。
文化十三年が暮れていった。
「清吉」の店主は、年が明けても変わらず日本橋にいるのだろう。
そして、八丁堀をはじめとする常連客たちも。
除夜の鐘が遠くから聞こえてきた。
<了>




