第九十七回:「笹屋」の新人職人の噂。
初冬。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
流石に風が冷たくなってきていた。
常連客が二人、「清吉」の暖簾をくぐった。
それぞれ、かけ蕎麦を注文する。
店主は、蕎麦を二束、茹で始めた。
二人の会話が聞こえてくる。
常連客が言った。
「『笹屋』って知ってるか?『鴨南蛮』の『笹屋』」
もう一人が答える。
「あたりめぇよ。あそこの『鴨南蛮』は絶品さね。値が張るんでそうしょっちゅうは食えねぇが」
「その『笹屋』、鴨南蛮だけでなく、かけが美味くなったらしい」
「かけも美味くなったのかい!そりゃいいことだ」
「どうにも、いい腕の蕎麦打ち職人が入った、って噂でねぇ……」
その言葉に、店主の手が一瞬、止まった。
もう一人が口を開く。
「そうなのかい……そういや店主、最近、あの若者を見かけないけど……」
店主はぶっきらぼうに答えた。
「……あいつなら辞めましたよ。『修行が辛い』って、田舎に帰りましたわ」
常連客は驚いた。
「へぇ……そうは見えなかったけどねぇ……」
「まぁ、いつもの形に戻っただけですよ……はいよ、かけ、お待ち」
店主は、かけ蕎麦の椀を二つ、差し出すのだった。
常連客二人は、かけ蕎麦を啜り始めた。
二人の会話を店主は噛み締めていた。
――どうやら「笹屋」さんで、あいつはきちんと修行を続けているようだな……
店主の顔は自然と微笑むのだった。
初冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




