第九十六回:「夜鳴き蕎麦」はやめろ。
冬が近づく晩秋の頃。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
今日、日本橋へ向かう前のこと。
若者はこう告げた。
「俺は、夜鳴き蕎麦『清吉』を継ぎたい」
若者は、店主が喜んでくれると思った。
しかし。
店主の顔は怒りで紅潮した。
裏長屋に怒声が響いた。
「馬鹿野郎!お前は誰の孫だ!あの人がどれだけの腕だったと思ってる!」
店主は、若者に、さらに言葉を浴びせた。
「俺なんか一生追いつけなかった……その孫のお前が、夜鳴き蕎麦だと!もっと上を目指しやがれ!」
店主はその場で書をしたためた。日付を書き込んだ。それ以外は既に記載済みだった。
若者に投げるようにそれを渡す。
店主の怒りは収まらなかった。
「それは日本橋の『笹屋』さんへの紹介状だ。そこで一からやり直しやがれ!」
若者が懇願する目で店主を見た。
「……師匠……俺は……」
若者の言葉を遮るように、店主は怒鳴り続けた。
「お前に『師匠』呼ばわりされる謂れはねぇ!とっとと『笹屋』さんのところに行きやがれ!」
店主は若者を追い出した。若者がとりつく島もなかった。
その日の夜。店主は一人で「清吉」を切り盛りした。
使った蕎麦は、半分は若者が打ったもの。出し汁は若者のものと、自分の出し汁を合わせたものだった。
客は、そのことに、誰一人気づかなかった。
店主は帰り道、「一人であること」に、ため息をついていた。
翌日。裏長屋。
店主は、いつも通り、鍼医にかけ蕎麦を持っていった。
「……おや……今日は一人、足りないねぇ……」
鍼医は呟いた。昨日の騒ぎは全て聞こえていたが、あえてそう言った。
「……あいつの修行は、昨日で終いでさぁ。あっしが教えることは、もう何もないんで……」
「……そりゃ残念だね。あの子の蕎麦は、柔らかく優しい蕎麦だったよ」
「だからでさぁ」
店主は告げた。
「あいつ、『夜鳴きの屋台を引く』なんて言いやがった。世間知らずが、いきなり夜鳴きなんて馬鹿げてる。暇を出して大店へ行かせましたよ」
「……あんたなりの『親心』かい……」
「そんなんじゃねぇすよ……そんなんじゃ……」
店主はそう言って、鍼医の部屋を辞した。
店主は、今日も一人、屋台の準備をするのだった。
――いつも通りに戻っただけさ……いつも通りに……
店主は自らに、そう言い聞かせるのだった。
今日も日本橋の袂の「清吉」の提灯に灯りが灯る。
変わらず、今日も常連客が訪れるのだった。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




