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夜鳴き蕎麦徒然草子  作者: いわん
第十部:文化十三年、江戸日本橋。

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第九十六回:「夜鳴き蕎麦」はやめろ。

冬が近づく晩秋の頃。江戸は日本橋。

橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。

提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。


今日、日本橋へ向かう前のこと。

若者はこう告げた。

「俺は、夜鳴き蕎麦『清吉』を継ぎたい」

若者は、店主が喜んでくれると思った。

しかし。

店主の顔は怒りで紅潮した。


裏長屋に怒声が響いた。

「馬鹿野郎!お前は誰の孫だ!あの人がどれだけの腕だったと思ってる!」

店主は、若者に、さらに言葉を浴びせた。

「俺なんか一生追いつけなかった……その孫のお前が、夜鳴き蕎麦だと!もっと上を目指しやがれ!」

店主はその場で書をしたためた。日付を書き込んだ。それ以外は既に記載済みだった。

若者に投げるようにそれを渡す。

店主の怒りは収まらなかった。

「それは日本橋の『笹屋』さんへの紹介状だ。そこで一からやり直しやがれ!」

若者が懇願する目で店主を見た。

「……師匠……俺は……」

若者の言葉を遮るように、店主は怒鳴り続けた。

「お前に『師匠』呼ばわりされる謂れはねぇ!とっとと『笹屋』さんのところに行きやがれ!」

店主は若者を追い出した。若者がとりつく島もなかった。


その日の夜。店主は一人で「清吉」を切り盛りした。

使った蕎麦は、半分は若者が打ったもの。出し汁は若者のものと、自分の出し汁を合わせたものだった。

客は、そのことに、誰一人気づかなかった。

店主は帰り道、「一人であること」に、ため息をついていた。


翌日。裏長屋。

店主は、いつも通り、鍼医にかけ蕎麦を持っていった。

「……おや……今日は一人、足りないねぇ……」

鍼医は呟いた。昨日の騒ぎは全て聞こえていたが、あえてそう言った。

「……あいつの修行は、昨日で終いでさぁ。あっしが教えることは、もう何もないんで……」

「……そりゃ残念だね。あの子の蕎麦は、柔らかく優しい蕎麦だったよ」

「だからでさぁ」

店主は告げた。

「あいつ、『夜鳴きの屋台を引く』なんて言いやがった。世間知らずが、いきなり夜鳴きなんて馬鹿げてる。暇を出して大店へ行かせましたよ」

「……あんたなりの『親心』かい……」

「そんなんじゃねぇすよ……そんなんじゃ……」

店主はそう言って、鍼医の部屋を辞した。


店主は、今日も一人、屋台の準備をするのだった。

――いつも通りに戻っただけさ……いつも通りに……

店主は自らに、そう言い聞かせるのだった。


今日も日本橋の袂の「清吉」の提灯に灯りが灯る。

変わらず、今日も常連客が訪れるのだった。


秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。


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