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夜鳴き蕎麦徒然草子  作者: いわん
第十部:文化十三年、江戸日本橋。

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第九十四回:船宿の女中の苦労

秋の中頃。江戸は日本橋。

橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。

提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。

夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。

その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。


「清吉」の暖簾が上がった。

いつぞやの、気風のいい船宿の女中だった。今日は一人だった。

「花巻、お願いするよ」

「あいよ。花巻一丁」

店主は、いつもの手つきで蕎麦を一束、鍋に入れた。


女中は口を開いた。

「ちょいと聞いてくださいよ」

「……へぇ……なんでしょう……」

店主が答えると、船宿の女中は愚痴り始めた。

「うちの船宿に、たまに困った客が来るのさ」

「ほうほう」

店主は茹で上がった蕎麦を湯切り、椀へと開けた。

「あたしらに色目使ったり、金を渡したり。そういうことをされても困るんだよ。あたしらは『遊女』じゃないんだから」

「船宿も大変ですねぇ……」

「まぁ、女中の中にも、客にチヤホヤされて喜んでるのもいるけど……あたしに言わせりゃ『勘違い』だね」

「……勘違い、ですかい……」

店主はそう答えると、椀に出し汁を注ぎ、ちぎった海苔をたっぷりと乗せた。

「そうそう、勘違い。蓮葉で軽く見られてるのさ。それを勘違いしているのさね」

店主は驚いた。蕎麦を準備していた手が止まる。

「……蓮葉ですかい……お客さんは、そうは見えませんがね……」

「当たり前だい、あたしはそんな軽い女じゃないよ」

「……そいつは失礼しました……はいよ、花巻、お待ち」

店主は、女中に花巻蕎麦を差し出した。

女中は蕎麦の椀を受け取った。

「ありがとよ……それにしてもここの花巻は、海苔がたっぷりだねぇ」

「気風のいい姐さんには、特別、海苔多めでさぁね」

そういうと、店主は笑った。

船宿の女中も、つられて笑うのだった。


夜が更けていった。

初秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。


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