第九十四回:船宿の女中の苦労
秋の中頃。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
「清吉」の暖簾が上がった。
いつぞやの、気風のいい船宿の女中だった。今日は一人だった。
「花巻、お願いするよ」
「あいよ。花巻一丁」
店主は、いつもの手つきで蕎麦を一束、鍋に入れた。
女中は口を開いた。
「ちょいと聞いてくださいよ」
「……へぇ……なんでしょう……」
店主が答えると、船宿の女中は愚痴り始めた。
「うちの船宿に、たまに困った客が来るのさ」
「ほうほう」
店主は茹で上がった蕎麦を湯切り、椀へと開けた。
「あたしらに色目使ったり、金を渡したり。そういうことをされても困るんだよ。あたしらは『遊女』じゃないんだから」
「船宿も大変ですねぇ……」
「まぁ、女中の中にも、客にチヤホヤされて喜んでるのもいるけど……あたしに言わせりゃ『勘違い』だね」
「……勘違い、ですかい……」
店主はそう答えると、椀に出し汁を注ぎ、ちぎった海苔をたっぷりと乗せた。
「そうそう、勘違い。蓮葉で軽く見られてるのさ。それを勘違いしているのさね」
店主は驚いた。蕎麦を準備していた手が止まる。
「……蓮葉ですかい……お客さんは、そうは見えませんがね……」
「当たり前だい、あたしはそんな軽い女じゃないよ」
「……そいつは失礼しました……はいよ、花巻、お待ち」
店主は、女中に花巻蕎麦を差し出した。
女中は蕎麦の椀を受け取った。
「ありがとよ……それにしてもここの花巻は、海苔がたっぷりだねぇ」
「気風のいい姐さんには、特別、海苔多めでさぁね」
そういうと、店主は笑った。
船宿の女中も、つられて笑うのだった。
夜が更けていった。
初秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




