第九十三回:「蕎麦屋」の真髄。
初秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
その日の昼。裏長屋。
若者は蕎麦を打ち終え、出し汁の準備をしていた。
「……どうでしょう……」
店主は出し汁の出来を確認する。
――まだ、最後の詰めが甘いが、これなら……
店主は、決断した。
今晩、この若者に「夜鳴きそばの屋台」をすべて任せることに。
蕎麦打ちから出汁とりから全てを「任せる」。
「……出かけるぞ。今日の天ぷらを買いに行く……」
「……ついて行っていいんですかい?」
若者の問いに店主は答えた。
「仕入れも覚えないと、『蕎麦屋』とは言えないからな」
そう言って、店主は出かける準備をするのだった。
夜。
日本橋。夜鳴き蕎麦屋「清吉」。提灯に灯りが付いていた。
屋台の調理場には、若者が立っていた。
店主はその背後で若者を見守る。
常連客が暖簾を上げた。
「お、またあんたかい……じゃあ、天ぷらをお願いしようかな」
「あいよ。天ぷら一丁」
若者の声から余計な緊張が消えていた。
若者は、蕎麦を一束、鍋に入れる。
蕎麦を湯から引き上げ、湯切りをした。
椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、かき揚げを乗せた。
その全てが滑らかだった。
「お待たせしました、天ぷら一丁です」
常連客が箸を取る。
一口、蕎麦を啜った。
常連客の目が見開かれる。
それから黙って常連客は蕎麦を啜り続けた。
気がつけば汁まで完食していた。
常連客が口を開いた。
「……あんた、何年目だっけ?」
「ちょうど、二年になります」
「……二年でこれたぁ……店主、いいお弟子さんを育てたねぇ」
店主は苦笑した。
「別に『弟子』ってわけじゃねぇですよ。ただ『蕎麦』を教えているだけでさぁ」
「弟子じゃない?」
店主の言葉に、常連客は首を傾げるのだった。
夜更けになった。
八丁堀が暖簾を上げた。
「お、また、あんたかい……かけ、頼むよ」
「あいよ。かけ一丁」
若者は、蕎麦を一束、鍋に入れた。
蕎麦を湯から引き上げ、湯切りをする。
椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、刻み葱を乗せた。
八丁堀が感心の眼差しを向ける。
「お待たせしました、かけ一丁です」
八丁堀は七味をパラリとかけると、箸を取った。
蕎麦を一口啜る。
「……美味ぇじゃねぇか……今日も、蕎麦と出汁は店主のかい?」
「旦那。今日の蕎麦と出し汁は、全部、こいつが準備したもんでさぁ」
「……それはそれは……いい蕎麦を打つようになったねぇ」
若者は照れたように頭を掻いた。
今日の商いが終わった。
二人は、屋台を畳み始める。
店主がふと漏らした。
「……まあ、今のお前なら大丈夫だ。どこの店でもやっていける……」
そう言われた若者は、胸にある決意を忍ばせていたのだった。
初秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




