第九十二回:お奉行、ご乱心。
江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」があった。
提灯に書かれている屋号は「清吉」と書いてあった。
店主は、提灯に灯を灯し、暖簾を出した。夜鳴き蕎麦屋が暖簾を出すのは珍しいことだった。
暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、さすがの日本橋も人通りは減る。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
いつも通り、静かな夜。のはずだった。
急に、店の前が騒がしくなった。
八丁堀の声が聞こえる。
「お奉行、お考え直してください。あなたの行くようなお店では……南町奉行としての沽券が」
男の声――おそらくはお奉行の――が聞こえてきた。
「俺の沽券なぞどうでもいい。お主らが禁じられている『夜廻りの飲食』を破るほどの店なら、俺が直々に検分せねばならん」
そうして、暖簾が上げられた。
眼力のある老人がそこにいた。きっちりとした着物に、頭巾を深く被っている。だが、その隙間からのぞく眼光や佇まいは、明らかにタダ者ではなかった。
――この方が「切れ者」のお奉行か。いかにも、だな。
店主はそう思った。
「いらっしゃい。何にしましょう」
店主は平然と対応した。身分違いが来たからってやることは変わらない。それが店主の考えだった。
「ここは、何が美味いんだ?」
男は八丁堀に聞いた。
「……どれも美味いですが、まずはかけ蕎麦がよろしいかと……」
男は頷いた。
「店主。かけ蕎麦を頼む」
「……おひとつで?」
店主は男の背後に控える八丁堀に目配せをした。
「おぉ、そうじゃな。お主は何にする」
男は八丁堀に声をかけた。
八丁堀は、慌てて首を横に振った。
「あっしは結構です。今日はお奉行だけで……」
「そうか。あいわかった。かけ蕎麦一つで頼む」
店主は、蕎麦を一束、鍋に入れた。
蕎麦を湯から引き上げ、湯切りをし、椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、刻み葱を乗せた。
お奉行を前にしても、店主の滑らかな手捌きは変わらなかった。
「はいよ。かけ一丁、お待ち」
お奉行は椀を受け取り、箸を取った。
一口、蕎麦を啜った。
一呼吸の間があった。
お奉行は、再び黙って蕎麦を啜り続けた。合間に出し汁を飲む。
側から見てもお奉行は蕎麦に夢中だった。
気がつけば椀は空になっていた。
「……これは馳走になった……確かに、これは夜廻りの際に食べたくなる味だ……」
そこまで言うと、お奉行の目が険しくなった。
「だが、『夜廻り中の飲食』は、町人にあらぬ疑いがかけられるやもしれぬ禁じ事」
お奉行は八丁堀を見た。
「よって……目立たず、町人に騒がれぬよう、ひっそりと足を運ぶが良い。わかったか。決して『公認』ではないぞ。皆にもそう伝えておけ」
「……へい。わかりやした」
八丁堀は、奉行の沙汰に、ほっと胸を撫で下ろすのだった。
秋風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




