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夜鳴き蕎麦徒然草子  作者: いわん
第十部:文化十三年、江戸日本橋。

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第九十二回:お奉行、ご乱心。

江戸は日本橋。

橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」があった。

提灯に書かれている屋号は「清吉」と書いてあった。

店主は、提灯に灯を灯し、暖簾を出した。夜鳴き蕎麦屋が暖簾を出すのは珍しいことだった。

暖簾には「二八」と書いてあった。

夜ともなれば、さすがの日本橋も人通りは減る。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。

いつも通り、静かな夜。のはずだった。


急に、店の前が騒がしくなった。

八丁堀の声が聞こえる。

「お奉行、お考え直してください。あなたの行くようなお店では……南町奉行としての沽券が」

男の声――おそらくはお奉行の――が聞こえてきた。

「俺の沽券なぞどうでもいい。お主らが禁じられている『夜廻りの飲食』を破るほどの店なら、俺が直々に検分せねばならん」

そうして、暖簾が上げられた。

眼力のある老人がそこにいた。きっちりとした着物に、頭巾を深く被っている。だが、その隙間からのぞく眼光や佇まいは、明らかにタダ者ではなかった。

――この方が「切れ者」のお奉行か。いかにも、だな。

店主はそう思った。

「いらっしゃい。何にしましょう」

店主は平然と対応した。身分違いが来たからってやることは変わらない。それが店主の考えだった。

「ここは、何が美味いんだ?」

男は八丁堀に聞いた。

「……どれも美味いですが、まずはかけ蕎麦がよろしいかと……」

男は頷いた。

「店主。かけ蕎麦を頼む」

「……おひとつで?」

店主は男の背後に控える八丁堀に目配せをした。

「おぉ、そうじゃな。お主は何にする」

男は八丁堀に声をかけた。

八丁堀は、慌てて首を横に振った。

「あっしは結構です。今日はお奉行だけで……」

「そうか。あいわかった。かけ蕎麦一つで頼む」

店主は、蕎麦を一束、鍋に入れた。

蕎麦を湯から引き上げ、湯切りをし、椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、刻み葱を乗せた。

お奉行を前にしても、店主の滑らかな手捌きは変わらなかった。

「はいよ。かけ一丁、お待ち」

お奉行は椀を受け取り、箸を取った。

一口、蕎麦を啜った。

一呼吸の間があった。

お奉行は、再び黙って蕎麦を啜り続けた。合間に出し汁を飲む。

側から見てもお奉行は蕎麦に夢中だった。

気がつけば椀は空になっていた。

「……これは馳走になった……確かに、これは夜廻りの際に食べたくなる味だ……」

そこまで言うと、お奉行の目が険しくなった。

「だが、『夜廻り中の飲食』は、町人にあらぬ疑いがかけられるやもしれぬ禁じ事」

お奉行は八丁堀を見た。

「よって……目立たず、町人に騒がれぬよう、ひっそりと足を運ぶが良い。わかったか。決して『公認』ではないぞ。皆にもそう伝えておけ」

「……へい。わかりやした」

八丁堀は、奉行の沙汰に、ほっと胸を撫で下ろすのだった。


秋風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。


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