第九十一回:秋の始まり
文化十三年。秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
常連客が暖簾を上げた。
「今日は……花巻をもらおうかい」
「あいよ。花巻一丁」
店主は一束の蕎麦を、ほぐしながら鍋に投入した。
常連客が尋ねた。
「……今年はまだ、新しい蕎麦のタネはないのかい?」
店主は、茹で上がった蕎麦を湯切りしながら答えた。
「……ないですねぇ……これ以上増やしても、手間が増えるばかりですし」
「……お弟子さんを使えばいいじゃねぇか」
そう言って、常連客は店主の背後にいる若者を見遣った。
店主は蕎麦を椀に開けた。出し汁を注ぐ。
「こいつは、そんなんじゃないんで」
そう言って、蕎麦の椀にちぎった海苔を散らした。
常連客は驚いた表情を見せた。
「……それは、どういう意味だい?」
「そのままの意味でさぁ。はいよ、花巻」
常連客は花巻蕎麦を受け取るのだった。
屋台を畳んでいる最中、若者が尋ねた。
「さっきの『そんなんじゃない』って、どういう意味ですか……」
店主はぶっきらぼうに答えた。
「おまえさんは『蕎麦職人になるため』にいる。あっしの『小間使い』じゃない、ってこった」
その言葉を聞いて、若者の胸は少し熱くなるのだった。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
今年も蕎麦の季節が訪れた。




