第九十回:文化十二年。年の瀬
文化十二年。冬は師走。江戸は日本橋。夜半の橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「ご馳走さん」
常連客が暖簾を上げた。
「またどうぞご贔屓に」
店主は常連客の背中に言葉をかけた。
時間が流れた。
今日はもう終いかな、と思った時。
八丁堀が暖簾を上げて入ってきた。
「……うー……今日も冷えるねぇ……花巻、頼むよ」
「あいよ。花巻一丁」
店主は、蕎麦を一束、鍋に入れた。
茹で上がった蕎麦を勢いよく湯切る。湯気が、冷えた夜気に溶けて消えていく。
椀に開けた蕎麦に出し汁を注ぎ、ちぎった海苔を多めに乗せた。
「はいよ、花巻一丁」
店主は八丁堀に花巻蕎麦を差し出した。
八丁堀は箸を取り、蕎麦を一口啜った。
八丁堀が口を開いた。
「……今年も終わりか……」
店主が答える。
「……色々ありましたねぇ……」
八丁堀は箸を止めた。椀にはまだ海苔も蕎麦も残っていた。
「……お奉行が亡くなったことは、俺はまだ引きずってるぜ……」
「……さいですか……」
八丁堀は話題を変えた。
「お前さんは、若いのを弟子にして、この先、順風満帆じゃないか」
店主は頭を掻いた。
「あれは、弟子なんかじゃないですよ。ただ、あっしの全てを教えているだけでさぁ」
八丁堀は混乱した。
「……それは『弟子』と何が違うんだ?」
「……違うんですよ。少なくともあっしは弟子とは思ってやせん……」
「……そう言うものかねぇ……」
「あいつには……ちょっと、あっしなりの考えがありやしてね……」
八丁堀は店主の言葉に首を傾げるのだった。
八丁堀は箸を取り直し、再び蕎麦を啜り始めた。
「今日の花巻は、海苔が多いな……」
「……湿気って余りそうなんで。余らせて捨てるよりは食ってもらったほうがマシでさぁね」
そういうと、店主は笑うのだった。
冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
屋台を畳む頃、雪がパラリパラリと降り始めた。
文化十二年が暮れていった。




