第九回:かけ蕎麦を頼む男
江戸の夜更け時刻。日本橋の袂。
いつものように、夜鳴き蕎麦屋「清吉」の提灯に灯りが灯った。
灯りがつくとともに、常連が蕎麦を食いに訪れていた。
店主は、注文を淡々と捌いていた。多くはかけ、たまに花巻、しっぽくが出ていた。
いつの頃からだっただろうか。客足が途絶え始める九つの鐘がなる前に、ふらりと立ち寄る客がいた。
その男は「かけ」とだけ言い、黙々と食べ、「ご馳走さん」と、十六文きっかり置いていく客だった。
店主は、何かを問いかけることもなく、黙々とかけ蕎麦を提供していた。
今日も、その客がやってきた。
「……かけ」
いつもとは違う口調。
店主は、気にせず、かけ蕎麦の調理を始める。
蕎麦を茹で、椀に開け、出し汁を注ぎ、刻み葱を乗せた。
「あいよ、かけ一丁」
店主から蕎麦の椀を受け取る男の袖口に、返り血らしき汚れがあることに気づいた。
店主の呼吸が、一瞬止まる。
そのことに気づかず、男は、黙ってかけ蕎麦を啜っていた。
店主は、驚きを顔に出さぬよう、目を逸らした。
やがて、男が、代金を置く。
「ご馳走さん。美味かったよ」
男は、普段とは違う言葉を残し、店を後にした。
その日以降、あの男は、姿を現さなくなった。
店主は、今日も、蕎麦を茹でる。
また、あの男が現れても、淡々と、かけ蕎麦を提供するのだろう。
夜風に吹かれ、屋台の風鈴が、今日もチリリンと鳴った。




