第八十七回:鍼治療、再び。
文化十二年。秋は霜月の初め。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
しかし、その日の夜、「清吉」の提灯の明かりはなかった。
その日の昼。「清吉」の店主が蕎麦を打っている時。
店主は再び、腰に違和感を覚えた。
――こりゃ、また、腰をやっちまったか?
その日訪れた若者に「今日は休みだ」と告げた。
無理をしたら悪化する。以前、鍼医に言われたことだった。
横になって休む。それでも違和感は治らない。
店主は、同じ裏長屋の鍼医の元へ向かった。
「鍼医の旦那……いますかい……」
店主は戸を叩いた。
「……開いてるよ。お入んなさい」
店主は鍼医の部屋へ入って行った。
「……ほう。また腰かい」
鍼医は手も触れずに診断した。
「……なんでお分かりに……」
「足音だよ。昨日と違って、腰を庇うような足運びさね」
「……お見それしやした……」
店主は頭を下げた。
「ほら。突っ立ってないで、上がって横になりな。また鍼を打つよ」
鍼医はそう言うのだった。
鍼医は、店主の腰を触診する。
「……偉いねぇ。『びっくり腰』にはなってないよ。もうちょっと無理してたら再発してたかも」
「……あんな痛みはもう勘弁ですよ……」
「この状態なら、鍼も十分に効くだろう。でも、今日一日は安静だ」
「……わかりやした……」
鍼医は、店主の腰に鍼を打つのだった。
「お代はいくらで……」
おずおずと店主は聞いた。
「お代はいらないよ。もう、あんたから貰ってる蕎麦の方が、鍼の代金よりも多いからね」
そう言って、鍼医は笑った。
「……すいません。腰がこんな調子なんで、今日の蕎麦は……」
「わかっとる、わかっとる。腰が楽になってからで構わんよ。それよりも養生せい」
鍼医は再び笑うのだった。
霜月の風が吹き、裏長屋に置いてある屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




