第八十六回:南町奉行の逝去
文化十二年。秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「南町奉行、逝去」の報が流れた。
十八年もの長い間、江戸の町を守っていた南町奉行の死。
奉行の顔を知らない町人も、沈痛な気持ちになった。
彼の下で働いていた同心たちは、なおさらだった。
南町奉行を見送った後、八丁堀と新人同心は「清吉」を訪れた。
二人はかけ蕎麦を頼む。
出来上がるまでのあいだ、二人は南町奉行の思い出を語った。
八丁堀がしんみりと呟いた。
「お奉行にも、ここの蕎麦を食わせて差し上げたかったなぁ……」
新人同心は頷く。
「……お奉行、お蕎麦が本当にお好きでいらっしゃいましたもんね……」
しんみりしている二人に、店主は声をかけた。
「お奉行様、蕎麦好きだったんですかい……」
八丁堀が応じる。
「……おうよ。たまに俺たちを蕎麦の大店へ連れて行ってくださってな。美味そうに蕎麦を手繰っていらっしゃったよ……」
「……そりゃまた……いいお人柄だったんで……」
新人同心が言葉を継いだ。
「……私みたいな若造にも優しくて……本当に、良い方でした……」
「でも、お奉行が夜鳴きってのは……立場上、難しかったんじゃ……」
八丁堀は店主の言葉に頷いた。
「うむ。本来なら俺たち同心もお咎めを受けかねねぇ。だが、お奉行は見て見ぬ振りをして許してくださった……あんな度量のデカい方は、そうそういねぇよ……」
店主は、二人に、出来上がったかけ蕎麦を出した。
八丁堀と新人同心は箸を取った。
ゆっくりと蕎麦を啜る。
「……あぁ、美味ぇ……お奉行にも、食べて欲しかったなぁ……」
八丁堀のその言葉に、新人同心は涙を流していた。
店主は、何も言葉をかけられなかった。
お奉行の冥福を祈るように、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




