第八十三回:初めての「夜鳴き蕎麦」商い。
初秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
店主は、「師匠の孫」の若者を「夜鳴きそばの屋台」に立たせることに決めた。
「実際に、客相手に蕎麦を出してみな」
店主は若者に、そう告げるのだった。
若者は驚きを隠せなかった。
その日の夜。日本橋は夜鳴き蕎麦屋「清吉」。
常連客が暖簾を上げた。
「かけ一丁……って、あれ、店主は?」
常連客は戸惑った。いつもの店主ではなく、見知らぬ若者が立っていたからだ。
「い、いらっしゃい。か、かけ一丁!」
若者の声は上ずっていた。
若者の背後にいた店主が常連客に声をかけた。
「……すいやせん、旦那。こいつはあっしが世話してる者なんですがね。今日はこいつの蕎麦を食ってみてくれませんか……」
常連客は答えた。
「……そういうことかい。わかった。俺は構わねぇよ。旦那が鍛えたんなら、味は大丈夫だろ」
そう言うと常連客は笑った。
店主は頭を下げた。
「ありがとうごぜぇやす……ほら、かけ一丁だ。蕎麦を茹でるんだよ」
店主は若者に指示を出した。
若者は慌てて、蕎麦を一束、鍋にドボンと入れる。
店主は何も言わなかった。
若者は、慌てて鍋をかき混ぜた。
常連客は、その光景をのんびりと眺めていた。口元に笑みが浮かんでいた。
若者は蕎麦を湯から引き上げ、湯切りをした。その手つきはぎこちなかった。
椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、刻み葱を乗せた。
「……お待たせしました、かけ一丁です」
若者は、かけ蕎麦を常連客に差し出した。
「ありがとよ。では、お手並み拝見……」
常連客は箸を取り、蕎麦を啜った。
黙々と蕎麦を食べる。
若者の額に緊張の汗が流れた。
常連客が箸を置いた。
「……初めてにしちゃ上出来。でも、まだまだ店主には敵わないね……」
「……率直なご意見、ありがとうございます……お代は……」
その店主の言葉を遮るように、常連客は銭を出した。四文銭、四枚。
「はいよ、十六文。そこら辺の夜鳴きよりは食える代物だったよ。お代はちゃんと払うよ。あんちゃん、頑張りな」
「……ありがとうございます!」
若者は頭を下げたのだった。
初秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




