第八十二回:待ち合わせ。
江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」があった。
提灯に書かれている屋号は「清吉」と書いてあった。
店主は、提灯に灯を灯し、暖簾を出した。夜鳴き蕎麦屋が暖簾を出すのは珍しかった。
暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、さすがの日本橋も人通りは減る。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その日の夜更け。
屋台の前で立ち止まる客がいた。
暖簾で顔は見えないが、足元を見ると、女のようだった。
――また、船宿の女中かな……
そう思って、店主は声をかけた。
「いらっしゃい。今日はまだ、終いじゃないですよ」
女は暖簾をあげた。店主の知らない女だった。
女はバツが悪そうな表情だった。
「……すいません……その……うちの旦那が、ここの夜鳴きに来るらしくって……」
女は頭を下げた。その頭には、その服装には似合わない、豪奢な鼈甲の簪が刺してあった。
「あぁ、待ち合わせですかい……椅子はないですが、まぁ、構いませんよ」
店主の言葉に、女は再び頭を下げた。
しばらく時が流れた。
不意に、女が店先を離れた。
少し離れたところで、会話する声が聞こえてきた。
そして。
二人仲良く、暖簾を上げて「清吉」に入ってきた。
男は、いつもの荷揚げの男だった。着物の右肩が綻んでいる常連客だった。
「……なんだい、あんた、世帯持ちだったのかい……」
店主の言葉に、男は照れたように頭を掻いた。
「……かけ、二つ、頼んます……」
店主は頷くと、蕎麦を二束、鍋に入れた。
蕎麦を湯から引き上げ、湯切りをする。
椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、それぞれに刻み葱を乗せた。
「はいよ、かけ二丁」
店主は、かけ蕎麦を二人に差し出した。
「……これが、あんたお気に入りの、かけ蕎麦かい……いい香りしてる……」
「……熱いから、気をつけな……」
二人は同時に蕎麦を啜った。
同時にため息が漏れる。
「……美味しい……」
「……変わらず、美味ぇ……」
店主は苦笑した。
「……蕎麦を喜んでくれるのはありがてぇが、そういう『お熱い』のは、家でやってくれませんかね」
店主のその言葉に、二人は顔を見合わせて笑うのだった。
秋風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




