第八十一回:今年の商いの始まり
文化十二年。秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが灯った。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
数刻前。裏長屋。
店主が若者に声をかけた。若者はそばを打つ手を止める。
「今日は一緒に来てみるかい」
若者は逡巡した。
「……いいんですか、俺がついて行っても……」
「あっしの一日を見るのも修行のうちさ。お前さん、蕎麦打ちだけが、蕎麦屋の仕事じゃないんだよ」
若者は頭を下げた。
「……勉強させていただきます……」
「……それに、お前さんに屋台の荷運びを手伝ってもらえると、あっしの腰も楽になるんでね」
店主はそう言って笑うのだった。
夜。「清吉」の提灯に灯りが灯った。
早速、常連客が暖簾を上げた。
「かけ一丁頼むよ」
「あいよ。かけ一丁」
店主は蕎麦を一束、鍋に入れた。
蕎麦を湯から引き上げ、湯切りをした。
椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、刻み葱を乗せた。
「はいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦を常連客に差し出した。
「……ありがとよ。さて、今年の蕎麦は……」
常連客は箸を取り、蕎麦を啜った。
常連客の顔に笑みが溢れる。
「これだよ、これ。今年も蕎麦の季節が来たねぇ」
「……ありがとうごぜいやす。今年もご贔屓に」
店主は頭を下げた。
客足は途絶えなかった。
常連客、一見客、酔っ払い。その全てを店主は捌き切った。
その動きを見ていた若者は、店主の手捌きに、改めて驚嘆するのだった。
――まだまだ、修行しないとダメだな……
若者は決意を新たにするのだった。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
今年も蕎麦の季節が訪れた。




