第七十八回:「物書き老人」再訪。
初冬。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「やってますかい」
老人が暖簾を上げた。いつぞやの「話好きの物書き老人」だった。
「……これは、ご隠居。お久しぶりです」
「『ご隠居』呼びはやめてくれい。老いた身じゃが、まだこれでもご奉公しておるんじゃ」
老人は力強く言った。
「……これは失礼しました。で、今日は何にしましょう」
「天ぷら、ちうのは、なんの天ぷらかね?」
「今日は、芝エビのかき揚げで」
「芝エビ!そいつはいい。それをいただこう」
店主は蕎麦を一束茹で始めた。
「……そういや、物書きしている、と前におっしゃてましたが、どんなものを?」
「……くだらないことを覚えてるのう……」
「物書きじゃないんですかい?」
「趣味で書いてるだけじゃ。世に出す予定もない」
「さいですか……ぜひ、読んでみたく思ったんですがね……」
「貸本で、三馬や一九、馬琴を読む方がマシじゃ。わしみたいな素人よりもよっぽど読み応えがあるぞい」
「さいですか……はいよ、天ぷら、お待ち」
店主は老人に天ぷら蕎麦を差し出した。
老人は蕎麦を啜り、芝エビのかき揚げを一口齧る。
「蕎麦の出汁とかき揚げが絶妙で……これは美味いのう……」
「お褒めに預かり光栄ですが、それ、『四文屋』の天ぷらですぜ」
「……ほう……じゃが、大店の天ぷら蕎麦より美味いぞい。なぜじゃろう……」
「もしかすると、そこは、その店で揚げてるのかもしれやせん。でも、たとえ四文屋でも、餅は餅屋。天ぷらは天ぷら屋、でさぁね」
「……うむ……そうかもしれんのう……」
そう言って老人は、天ぷら蕎麦を楽しむのだった。
初冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
翌日。南町奉行所。
その日のお奉行は、一日中、ご機嫌だった。
――「清吉」の蕎麦はそんじょそこらの大店より美味い。さて、次はいつ行けるのやら……
お奉行の機嫌の良さの理由を知らない同心たちは首を傾げるのだった。




