第七十七回:若者の修行の始まり。
文化十一年。秋は霜月の初め。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
その日の昼。店主が蕎麦を打っている時、訪問客が戸を叩いた。
「……『清吉』の旦那、いるのかい?」
以前「清吉」で啖呵を切った若者――師匠の孫――の声だった。
「おう。ちょいと待ってな」
店主は答えた。蕎麦打ちの手を止め、手拭いで手を拭った。
「いらっしゃい……引き返すのなら今のうち、だよ……」
店主の声は真剣だった。
若者の背筋に冷たいものが走った。
「……おうよ……腹なんざぁ、とっくに括ってる」
若者は、搾り出すように、声を出した。
「条件は二つ。蕎麦粉と出汁の金だけは貰う。道具は好きに使え。だが壊すな」
「……わかった。で、今日は何から……」
「……今日は黙って、あっしのやることを見てろ。そして、それを覚えろ。いつでもいい、『覚えた』と思ったらあっしに言え。実際に『覚えたこと』をやらせる」
意外にも優しい言葉だった。だが「内容」は厳しかった。もし「覚えた」と言って、それができなかったら――店主はそれについて口にしなかった。
――もし失敗したら……そこで……
若者は、それを想像して青ざめた。
店主が口を開いた。
「何も始まってないのに、今からビビってどうするんだい。肝っ玉の小せえ男だ」
そう言うと、店主は笑った。
若者は、余計に緊張したのだった。
「それじゃ、始めるぞ……突っ立ってないで、上がりな」
店主はそう、若者を促すのだった。
霜月の風が吹き、裏長屋の外に置いてある屋台の風鈴が、チリリンと鳴った。




