第七十六回:「笹屋」の「鴨南蛮」蕎麦
秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
昼すぎ。天ぷらの仕入れ前に店主は、とあるところに立ち寄った。
日本橋は鞍掛橋の袂の蕎麦屋「笹屋」だった。
暖簾を上げ、店に入る。
「いらっしゃいませー」
威勢のいい声が返ってきた。
――さすが大店。教育ができてるねぇ……
店主は「鴨南蛮」を注文した。
待っているあいだも、ひっきりなしに客が出入りする。
皆、満足げな表情で帰っていった。
店主の期待が膨らんでいった。
「はいよ。鴨南蛮、お待ちどう」
店主の前に鴨南蛮が置かれた。
鴨と焼いた葱の香ばしい香りが、店主の鼻をくすぐった。
――さてと……お手並み拝見……
七味をパラリとかけ、店主は蕎麦を啜った。
店主は目を見開いた。
「美味い……」
思わず言葉が出た。
店主は無言になって蕎麦を啜った。
鴨と葱を口に含む。鴨肉の脂の旨みが絶妙だった。
――かけ蕎麦なら負けないかもしれねぇ。でも、この「鴨南蛮」は……
店主は、夢中になって「鴨南蛮」を食べた。
食べ終えて、店主は声をかけた。
「店主の旦那に……治兵衛さんにご挨拶させてくれないかい……」
その言葉を受けて、「笹屋」の店主、治兵衛が現れた。
不審げな目で店主を見た。
「……何か、うちの蕎麦に問題でもありましたかい……」
店主は首を横に振った。破顔して、治兵衛に頭を下げる。
「こんな美味い『鴨南蛮』は初めてで……感激しました。あっと、失礼。あっしは日本橋で夜鳴き蕎麦をやってる者ですが……」
治兵衛の目が変わった。
「日本橋の夜鳴きって……あの『清吉』の店主さんかい?」
「……へぇ、うちをご存知で?」
「ご存じも何も、うちの若い者が絶賛してるよ。『仕事帰りに食う。美味い夜鳴きだ』ってね」
店主は頭を掻いた。
「いや……此方さんの『鴨南蛮』には敵いませんて……鴨も葱も此方で調理を?」
「さいでさぁ。どこも『鴨葱の炙り』なんて作りません。逆に、うちで作るから、蕎麦に合わせられる。って寸法でさぁ」
治兵衛は誇らしげだった。
「それはそれは……ご教授、ありがとうございます」
店主は治兵衛に深々と頭を下げるのだった。
帰り道。
――やっぱり、うちでは「鴨南蛮」は無理だねぇ。今の品書きで頑張るか……
店主はそう思うのだった。




