第七十五回:一見客と「鴨南蛮」
秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜半過ぎ。
一見客が暖簾を上げた。品書きを見る。
「……鴨南蛮はないのかい」
店主はそっけなく答えた。
「ないですねぇ」
一見客は店主に問いかけた。
「やらんのかい?」
店主はやんわり否定した。
「仕入れも手間も大変ですからねぇ」
一見客は愚痴る。
「……鴨南蛮、美味いんだがねぇ」
店主は淡々と答えた。
「鴨南蛮が食べたきゃ、この先にある『笹屋』さんで食うといいですぜ。店主の治兵衛さんの腕は確かだって話だ」
一見客はしつこく言葉を続けた。
「……『笹屋』はこの時刻にはもう閉まってる。こういう夜中に食べたいんだがねぇ……」
店主はキッパリと答えた。
「……そりゃ、他の夜鳴きで頼んでくださいな。うちじゃやりませんので」
一見客はついに諦めた。
「……わかった……じゃあ、かけで……」
「あいよ、かけ一丁」
店主は蕎麦を一束、茹で始めた。
茹で上がった蕎麦を椀に開け、出し汁を注いで刻み葱を乗せた。
店主は、一見客にかけ蕎麦を差し出した。
一見客は蕎麦を一口啜った。
「……ただのかけ蕎麦なのに……美味ぇじゃねぇか……」
一見客はそう言うと、無言になって蕎麦を啜るのだった。
「……さっきは失礼なこと言って、すまなかった……」
一見客は十六文置くと、そそくさと帰るのだった。
八丁堀が暖簾を上げて入ってきた。
「……どうしたんだい、今の客……」
「……何も……何にしましょう」
「あぁ……かけ一丁、頼むよ」
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、蕎麦を一束、湯へくぐらせた。
茹で上がった蕎麦を勢いよく湯切る。
椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、刻み葱を乗せた。
「はいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦を八丁堀に差し出した。
「……品書き、増やした方がいいんですかねぇ……」
ポツリと店主がこぼした。珍しいことだった。
「……どうした。さっきの客か……」
「……実は、『鴨南蛮』をせがまれましてね……」
八丁堀は出し汁を飲みながら言った。
「……おまえさんの負担にならなきゃいいんじゃないか?出来たら真っ先に来るがね」
「四文屋で、いいのが手に入りゃ、考えないこともない、んですがねぇ……」
「四文屋で鴨南蛮の具?そりゃ無理だろうよ」
そう言うと、八丁堀は笑うのだった。
「そうですよねぇ……四文屋じゃ、そんなの見たこたねぇ」
店主も釣られて笑った。
二人の笑いに釣られるように、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




