第七十四回:腰痛と「鍼」
初秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
「!……痛ぇ!」
その日の昼。店主は蕎麦打ちの最中に、腰に痛みを覚えた。
尋常ではない痛みだった。
立ち上がる。さらに痛みが走る。
「痛ぇ!」
店主は叫んだ。
動けない。店主は途方に暮れた。
「……どうしなすったい」
戸の向こうから声が聞こえた。
同じ裏長屋の端に住む、盲の声だった。
今日はどうやら、盲しか裏長屋にいないらしい。その盲に、店主の叫びが届いたようだった。
「……腰が……腰が痛くて、動けねぇんでさ……」
「ちょっくら、見るかい?」
「……見るって、何を……あんた盲だろ……」
「あんたの腰を、さ。これでも鍼と灸をやってるんでね」
――あの盲は鍼医だったのかい……地獄に仏、だな……
店主は盲――鍼医――を部屋に招き入れた。
「……おや、あんた、あの時の蕎麦屋かい」
「なんでわかる……」
「部屋に漂う蕎麦粉の香りさ。こんなの蕎麦屋でもないと嗅げやしねぇ。それもこの長屋の一室で。夜鳴き蕎麦以外何があるんでさぁ。前に蕎麦を振舞ってくれただろ?」
鍼医は笑った。
店主にうつ伏せに寝るよう促す。
「……今は、腰の痛み、どうですかい?」
「……大丈夫だ……」
「じゃあ、体を起こせるかい?」
「……ダメだね……」
「そうかい。じゃ、腰を触らせてもらうよ。痛かったら言ってくださいな」
鍼医は店主の腰を触った。
覚えのある張り方をしていた。
「こりゃ、『腰の疝気』、いわゆる『びっくり腰』だね」
「……すぐ治りますかい?」
「……今日は無理だね……しばらくは安静だ……」
鍼医の言葉に、店主はうなだれるのだった。
鍼医は鍼を準備した。
「腰と尻に四本、鍼を打つ。腎兪。続いて志室。大腸兪。最後に環跳だ。痛かったらすぐ言いな」
鍼医は、そう言うと、店主に鍼を打った。
鍼医は店主に告げた。
「今日は店を休んで、横になってなさい。明日の朝、また様子を見に来るよ」
「……ありがとうごぜえやす……助かった……お代は……」
「そんなの、腰が治ってからでいいよ」
「……すまねぇが、今は蓄えがねぇ。お代は払えねぇかも知れねぇ。だが、代わりに……」
「代わりに?」
「これから毎日、夕飯としてかけ蕎麦を持ってく。ってのはどうだい?」
「おぉ、あんたの蕎麦をかい……あれは美味かった……分かった。それで結構だ。それで手を打とう」
鍼医は笑うのだった。
数日後。
腰が落ち着いた日から、鍼医の部屋へかけ蕎麦を持っていくのが、店主の勤めの一つになった。
「はいよ、今日のかけ蕎麦だ」
店主は鍼医に蕎麦の椀を差し出した。続いて箸を渡す。
「……ありがとうよ……毎日、助かってるよ、本当に……でも無理しなさんなよ。『びっくり腰』は癖になるからね」
鍼医はそう言うと、ズズズズズッと蕎麦を啜るのだった。
鍼医の顔に笑みが溢れる。
その鍼医の表情を見届けると、店主は日本橋のいつもの場所へと行くのだった。
店主はいつも通り、夜鳴き蕎麦の屋台の準備を始めた。
まだ腰に若干の違和感はあるが、痛んだら、またあの鍼医に頼ればいい。店主はそう思っていた。
初秋の夕暮れの風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




