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夜鳴き蕎麦徒然草子  作者: いわん
第八部:文化十一年、江戸日本橋。

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第七十四回:腰痛と「鍼」

初秋。江戸は日本橋。

橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。

提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。

夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。

その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。


「!……痛ぇ!」

その日の昼。店主は蕎麦打ちの最中に、腰に痛みを覚えた。

尋常ではない痛みだった。

立ち上がる。さらに痛みが走る。

「痛ぇ!」

店主は叫んだ。

動けない。店主は途方に暮れた。


「……どうしなすったい」

戸の向こうから声が聞こえた。

同じ裏長屋の端に住む、盲の声だった。

今日はどうやら、盲しか裏長屋にいないらしい。その盲に、店主の叫びが届いたようだった。

「……腰が……腰が痛くて、動けねぇんでさ……」

「ちょっくら、見るかい?」

「……見るって、何を……あんた盲だろ……」

「あんたの腰を、さ。これでも鍼と灸をやってるんでね」

――あの盲は鍼医だったのかい……地獄に仏、だな……

店主は盲――鍼医――を部屋に招き入れた。


「……おや、あんた、あの時の蕎麦屋かい」

「なんでわかる……」

「部屋に漂う蕎麦粉の香りさ。こんなの蕎麦屋でもないと嗅げやしねぇ。それもこの長屋の一室で。夜鳴き蕎麦以外何があるんでさぁ。前に蕎麦を振舞ってくれただろ?」

鍼医は笑った。

店主にうつ伏せに寝るよう促す。

「……今は、腰の痛み、どうですかい?」

「……大丈夫だ……」

「じゃあ、体を起こせるかい?」

「……ダメだね……」

「そうかい。じゃ、腰を触らせてもらうよ。痛かったら言ってくださいな」

鍼医は店主の腰を触った。

覚えのある張り方をしていた。

「こりゃ、『腰の疝気』、いわゆる『びっくり腰』だね」

「……すぐ治りますかい?」

「……今日は無理だね……しばらくは安静だ……」

鍼医の言葉に、店主はうなだれるのだった。


鍼医は鍼を準備した。

「腰と尻に四本、鍼を打つ。腎兪。続いて志室。大腸兪。最後に環跳だ。痛かったらすぐ言いな」

鍼医は、そう言うと、店主に鍼を打った。


鍼医は店主に告げた。

「今日は店を休んで、横になってなさい。明日の朝、また様子を見に来るよ」

「……ありがとうごぜえやす……助かった……お代は……」

「そんなの、腰が治ってからでいいよ」

「……すまねぇが、今は蓄えがねぇ。お代は払えねぇかも知れねぇ。だが、代わりに……」

「代わりに?」

「これから毎日、夕飯としてかけ蕎麦を持ってく。ってのはどうだい?」

「おぉ、あんたの蕎麦をかい……あれは美味かった……分かった。それで結構だ。それで手を打とう」

鍼医は笑うのだった。


数日後。

腰が落ち着いた日から、鍼医の部屋へかけ蕎麦を持っていくのが、店主の勤めの一つになった。

「はいよ、今日のかけ蕎麦だ」

店主は鍼医に蕎麦の椀を差し出した。続いて箸を渡す。

「……ありがとうよ……毎日、助かってるよ、本当に……でも無理しなさんなよ。『びっくり腰』は癖になるからね」

鍼医はそう言うと、ズズズズズッと蕎麦を啜るのだった。

鍼医の顔に笑みが溢れる。

その鍼医の表情を見届けると、店主は日本橋のいつもの場所へと行くのだった。


店主はいつも通り、夜鳴き蕎麦の屋台の準備を始めた。

まだ腰に若干の違和感はあるが、痛んだら、またあの鍼医に頼ればいい。店主はそう思っていた。


初秋の夕暮れの風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。


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