第七十三回:ある若者の訪問
初秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
今日は客足が少なかった。
――ま、こういう日もあるか……
店主がそう思った時、一見客が来た。若者だった。珍しかった。
その若者に、店主は、どこか、見覚えがあった。
――どこかで会ったかな?
店主は首を傾げた。
「かけ、一つ」
若者が注文した。ぶっきらぼうな声だった。
「あいよ。かけ一丁」
店主は、蕎麦を一束、湯へくぐらせた。
若者は、その調理風景を眺めていた。
店主は黙って茹で上がった蕎麦を勢いよく湯切った。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱を乗せた。
「はいよ。かけ、お待ち」
店主は、かけ蕎麦の椀を若者に差し出した。
若者は、黙って蕎麦を啜り始めた。
一口。二口。若者は何かを確かめるように蕎麦を啜っていた。
最後の出し汁を飲み干し、若者はため息をついた。
「……悔しいが、ここの蕎麦は美味い……本当に美味い……だが、俺は、あんたを超えてやる!」
若者はそう宣言した。
店主は思わず笑った。
「あっしの蕎麦なんかを目標にするのはやめなさい。もっと売れてる大店を目指しなさいよ」
若者は反駁した。その目は真剣だった。
「大店の蕎麦も食った。だが、ここの蕎麦が江戸一美味い。だから、俺の目標は、この蕎麦だ」
店主は呆れた。他に客がいないのが幸いだと思った。
若者は叫んだ。それは自身への「宣言」だった。
「俺は、爺様を超える!その蕎麦はここにあった!」
その言葉に店主は動揺した。思わず、若者に問いかける。
「……お前さん、名は?」
若者は名乗った。
それは、店主の亡き師匠の孫の名前だった。
道理でおぼえがあるはずだった。店主は、彼の小さい頃――師匠の元での修行時代――に、彼に会っていた。
店主は目頭が熱くなった。
「……お前さん、本気で美味い蕎麦を打つ気なんだね……」
「おうよ!」
若者は即答した。
「……わかった。なら、あっしの全てを教えてやる。覚える気があるなら、あっしの裏長屋にくるがいい……蕎麦の打ち方も、出汁の取り方も、全部、教えてやる……」
「いいんですかい!」
「構わねぇ……ただ、簡単に出来ると思うなよ」
「……お、おうよ……」
店主の迫力に、若者は少し、引いたようだった。店主のその顔は、普段、客には見せたことのない表情だった。
逆に、店主は腹を括った。
――師匠。あなたの孫に、あっしの全てを伝えますよ。手は抜きませんよ。
店主は、脳裏に浮かぶ、亡き師匠に誓うのだった。
初秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




