第七十二回:倹約令
江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」があった。
提灯に書かれている屋号は「清吉」と書いてあった。
店主は、提灯に灯を灯し、暖簾を出した。夜鳴き蕎麦屋が暖簾を出すのは珍しかった。
暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、さすがの日本橋も人通りは減る。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは何もかも違っていた。
常連客が暖簾を上げた。
「天ぷら……いや、かけ一丁」
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、蕎麦を一束、鍋に投入した。
「また、倹約の御触書だよ」
常連客が愚痴る。
「自分は贅を尽くしておいて、俺らには倹約たぁ、お上も酷ぇ事しやがる」
すでに蕎麦を食べていた、別の常連客が毒付いた。
お上が、江戸城で贅を尽くしてる、と言うのは、もっぱらの噂だった。
そこで、今回の倹約令である。町人に不満が出るのは当然であった。
「そのうち、天ぷらや花巻も『豪奢だ』って御触れが出たりしてな」
常連客のその言葉に、店主は茹で上がった蕎麦を湯切りながら答えた。
「そいつは勘弁してほしい、ですなぁ」
「……今のお上なら、やりかねないかもしれねぇなぁ……」
店主は言葉を継いだ。
「まぁ、うちの蕎麦が『豪奢だ』ってお上に取り締まられるんなら、先に大店が取り締まられまさぁね」
「そいつはちげぇねぇ。八丁堀の旦那も流石に怒るでしょうし」
常連客が笑うと同時に八丁堀が暖簾を上げた。
「……お、八丁堀の旦那。噂をすればなんとやら、だ」
常連客は、店主からかけ蕎麦を受け取ると、そう言った。
「そうかい。で、どんな噂だ」
八丁堀の問いに、常連客が答える。
「此度の『倹約の御触』でさぁ。そのうち、ここの天ぷら蕎麦もご禁制になるんじゃ、って話を」
「……んな馬鹿なことがあるかい。あれは『過度な豪奢』を諌めてるだけさ。大大店や船宿遊びの連中に釘を刺してるのさ。ここにゃあ関係ねぇ話だよ」
「ほうほう」
常連客はそう答えると、蕎麦を啜り始めた。
店主が口を開いた。
「……さいですか。で、何にしましょう、八丁堀の旦那」
「お、すまねぇ……天ぷら、頼むわ」
店主は蕎麦を茹で始めた。
「そら!天ぷら蕎麦は、八丁堀の旦那の御公認だ」
常連客が囃し立てた。
「……ったりめぇだ。ここの天ぷら蕎麦までご禁制になったら、俺は、あのお奉行にだって楯突くさ」
「……頼みますよ。八丁堀の旦那」
店主は、八丁堀に天ぷら蕎麦を差し出した。
天ぷら蕎麦を受け取った八丁堀は、蕎麦に七味をかけた。
蕎麦を啜る。かき揚げを一口食べる。
八丁堀は満足げに頷いた。そして真顔になった。
「……これが食えなくなるのなら……俺らは、その前に色々することがあるな……」
八丁堀は無言になるのだった。
いつになく真剣な八丁堀の表情を見て、常連客も黙ってしまうのだった。
秋風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




