第七十一回:蕎麦の季節の訪れ。
文化十一年。秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
毎年、その年の初商いは緊張する。
それは「清吉」の店主でも例外ではなかった。
「自分の味は飽きられてないか」
その不安は、いつも感じていた。
――でも、あっしにゃあ、この味しかないんだ。
店主は腹を括るのだった。
「かけ、一丁」
常連客が暖簾を上げた。今日の初客だった。
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、蕎麦を一束、沸騰した鍋に入れる。
茹で上がった蕎麦を勢いよく湯切った。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱を乗せた。
「はいよ。かけ、お待ち」
店主は、かけ蕎麦の椀を常連客に差し出した。
「ありがとよ……今年もこの季節が来たねぇ……」
「今年も皆さんにご贔屓にしてもらって……ありがたいことです」
店主は頭を下げた。
「頭あげてくれ。こっちは美味い蕎麦を食わしてもらってるんだから」
そう言うと、常連客は笑った。
「やってるかい」
別の常連客が暖簾を上げた。
「いらっしゃい。何にしましょう」
「それじゃ、かけ、一丁。頼むよ」
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、再び、蕎麦を一束、沸騰した鍋に入れた。
「今年も、蕎麦の季節が来たねぇ」
常連客は言った。店主が答える。
「今年も皆さんに来てもらえるよう、努めますよ」
店主は茹で上がった蕎麦を湯切る。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱を乗せた。
「はいよ。かけ、お待ち」
店主は、かけ蕎麦の椀を常連客に差し出した。
「これこれ。この香り。一年ぶりだぁね」
そう言うと、常連客は蕎麦を啜るのだった。
「……美味ぇ……あんたの蕎麦は本当に美味いよ……」
「……ありがとうございます」
店主は頭を下げたのだった。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
今年も蕎麦の季節が訪れた。




