第七十回:文化十年の年の瀬
文化十年。冬は師走。江戸は日本橋。夜半の橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「今晩も、寒いねぇ」
常連客は暖簾を上げるなり、そう溢した。
「さいですねぇ……今年の冬は、特に冷えますなぁ……」
店主は答えた。何もしないでいると、手がかじかむ寒さだった。
「かけ、頼むよ」
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は蕎麦を一束茹で始めた。
椀に出汁を入れ、蕎麦の上に刻み葱を散らす。
「あいよ、かけ、お待ちどう」
店主は客の前にかけ蕎麦の椀を出した。
また、暖簾が上がった。別の常連客だった。
「……今日はやけに冷えるねぇ……天ぷら、あるかい?」
「あいよ。天ぷら一丁ね」
店主は再び蕎麦を一束茹で始めた。
椀に出汁を入れ、蕎麦の上にかき揚げを乗せた。
「あいよ、天ぷら、お待ちどう」
店主は常連客の前に天ぷら蕎麦の椀を出した。
「ありがとよ……このあったけぇ蕎麦が、この時期には沁みるねぇ……」
常連客は出し汁を啜った。常連客の顔がほころんだ。
「……そういや、八丁堀の旦那は?」
「昨晩、夜番でしたから、今日は休みじゃないんですかね」
「そうかい……まぁ、あの旦那には世話になってる。長く勤めてもらいたいもんだ……」
「そうでさぁねぇ……」
店主は常連客の言葉に頷くのだった。
「ご馳走さん」
「ありがとうございました」
店主は、今日最後の客に頭を下げた。
店を畳む準備をする。
――今年も色々あったなぁ……
店主は夜空を見上げ、この一年を思い出すのだった。
冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
店主が帰宅する頃、雪がパラリパラリと降り始めた。
文化十年が暮れていった。




