第七回:上方の客
冬から春に移ろう季節。
江戸の夜更け時刻。日本橋の袂。
夜鳴き蕎麦屋「清吉」の提灯に灯りが灯った。
いつものように、常連が蕎麦を食いに訪れていた。
店主は、注文を淡々と捌いていた。
大抵の客は、かけ蕎麦。たまに花巻、しっぽくが出るくらいだった。
常連客が途切れた頃合い。
「やってるかい?」八丁堀が顔を出した。
その後ろに初顔の客がいた。
「この御仁が、美味い蕎麦が食べたい、っていうんでね。ここに連れてきたって話さ」
そうして、八丁堀の後ろにいた男は、店主に声をかけた。
「毎度。ここなら美味いもんが食えると聞きましてな」
その言葉は、上方のようだった。珍しいこともあるもんだ、と店主は思った。
「俺は、ちょっと野暮用があるんで。申し訳ないが、よろしく頼むよ」
その言葉を残して、八丁堀は去っていった。
「わしは、上方のもんやさかい、こういうところはよう知らん。おすすめはあるかい?」
上方の客は八丁堀がいなくても問題はないようだった。
「お蕎麦は初めてで?」店主は聞いた。
「蕎麦がきは食うとったがね。こういうのは初めてだね」客は笑った。
「江戸の土産話として、上方に持って帰ろうと思うてな。美味いのを一杯頼むよ」
「はいよ。じゃあ、かけ蕎麦にしますか」
そう言って、店主は、かけ蕎麦の準備をした。
「しかし、江戸は、蕎麦なんやねぇ。上方はうどんや。うどんは食わへんのかい?」
「うどんもいただきますよ。ただ、蕎麦を食う方が多いですね」
いつも通りの手順で、蕎麦を茹で、出し汁をかけ、刻み葱を散らす。
店主は、かけ蕎麦の椀を、客に差し出した。
「あいよ、かけ一丁」
目の前に出されたかけ蕎麦をまじまじと見る、上方の客。
「こらまた、黒い出し汁ですなぁ」
箸を取り、恐る恐る、蕎麦を口に含んだ。
客の目が見開かれる。
次に、汁を啜る。それから、客は、無言で、蕎麦を啜り続けた。
「ちと、塩辛いが……」一息つき、客は答えた。「寒い夜に食う飯としては、悪くないな……」
そうして、上方の客は、再び蕎麦を啜るのだった。気がつけば、完食していた。
「ご馳走さん。ええと……駄賃は……」
上方の客は懐をまさぐった。
「十六文でさ」
「そいじゃ、これで頼むわ。釣りはとっとき」
そう言って、上方の客は、十文銭を二枚、置いていったのだった。




