第六回:雨の夜
江戸は日本橋。その橋の袂。夜鳴き蕎麦屋「清吉」の灯りが灯っていた。
今夜はひどい雨だった。
激しい雨の音が、瓦屋根を叩きつけていた。
跳ね返った水が、屋台の足元に溜まり、
夜の闇に小さな水音を立てていた。
いつもの客も訪れる気配がなかった。
今夜は、早めに切り上げるか。店主はそんなことを思っていた。
茹で上げ用の鍋の火を落とそうとしたその時。
バシャンバシャンと、男の走る音が聞こえてきた。
次の瞬間、暖簾があげられる。
「……やってるかい?」ずぶ濡れの男が尋ねた。
「ご注文は?」店主が問い返す。
「……ありがてぇ。ええと……かけ、頼めるかい?」
「はいよ、かけ一丁ね」
店主はそう答えると、鍋に蕎麦を投入する。
「……こうも冷えると、あったけえ蕎麦がありがたいね」男は独り言のように言った。
店主は黙々と、蕎麦の準備をする。
茹で上がった蕎麦を椀に入れる。熱々の出し汁を注ぎ、刻み葱を散らした。最後にお麩を乗せる。
「……おい、店主」男が声をかけた。
「俺が頼んだのはかけだぜ?しっぽくじゃない」
「雨で湿気った麩だ。捨てちまうよりは、腹に入れた方がましだろ」
店主はぶっきらぼうに答えた。男へ蕎麦の椀を渡す。
「……すまねぇな……それじゃ、ご馳走になるかね」
男は七味をふりかけ、蕎麦を啜り始めた。
いつもより熱く、多めの蕎麦。
男は、何も言わずに蕎麦を啜り続けた。
椀から立つ湯気が、濡れた顔を覆い隠す。
男は汁まで綺麗に平らげ、満足げな表情を見せると、二十文置いた。
「かけは、十六文ですぜ、お客さん」
「……とっといてくんな。蕎麦も多めにしてくれたんだろ?」男はニヤリと笑った。
雨は、いつしか小降りとなっていた。
男が、また、駆け足で店を離れてゆく。
遠くで九つの鐘が鳴った。
雨が止み、風が吹き、屋台の風鈴がチリリンと鳴る。
店主は、今日はここまで、と、店をしまう準備をするのだった。




