第六十八回:三冊の「浮世風呂」
初冬。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
その日の店主の眉間には、皺があった。
――なんで一気に三冊も出やがるんだ。去年の二冊も大変だったってのに……
店主は心の中で呟いた。
常連客が暖簾を上げた。
店主の顔を見て、注文の声を躊躇う。
「いらっしゃい。何にしましょう」
店主の言葉に常連客が答えた。
「……それじゃ、かけ、で……」
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、蕎麦を一束、湯へくぐらせた。
湯切りの音が夜気へ弾ける。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱が乗せられた。
「はいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦の椀を常連客に差し出した。
店主の顔は、険しいままだった。
常連客は黙って椀を受け取った。
蕎麦を一口啜る。味に変わりはなかった。
「……何かあったんかい?」
常連客が聞いた。それは心配の声だった。
「……何もありゃしませんが……味、おかしかったですかい?」
「いや、蕎麦の味は変わらず美味いが……ずーっと、険しい顔してるぜ」
「……こいつは失礼しました……」
店主は屋台から離れ、近所の井戸で顔を洗った。
手拭いで顔を拭いながら戻ってくる。
「……どうでしょう」
常連客は首を横に振った。
「……治ってねぇよ。何があったか知らねぇが、今日は無理せず、早仕舞いした方がいいんじゃねぇかね?」
「……さいですか……」
「……悩み事があるんなら聞かないでもないぜ?」
「……いや、ご心配なく……」
その日、店主は、屋台を早仕舞いした。
帰り道でも店主の眉間に皺が刻まれていた。
初冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
「浮世風呂」第四編の三分冊が刊行された頃の話である。
楽しみにしていた「浮世風呂」の新刊。
店主は、その「浮世風呂」第四編を購入できていなかったのだった。




