第六十七回:祝言
文化十年。秋は霜月の初め。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「邪魔するよ」
八丁堀が暖簾を上げて入ってきた。
「あいよ。何にしましょう」
「今日は、天ぷらをもらおうかい」
「あいよ。天ぷら一丁ね」
店主は、いつものように蕎麦を湯へくぐらせた。
茹で上がった蕎麦を勢いよく湯切る。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げが乗せられた。
「はいよ、天ぷら一丁」
店主は、天ぷら蕎麦を八丁堀に差し出した。
「……そういや、『新人』の同心さん、しばらく見かけませんねぇ……」
店主が独り言のように言った。
「あいつなら……しばらくはこねぇよ……」
八丁堀は蕎麦を啜ったのち、そう言った。
店主は尋ねた。
「……何か、あったんですかい……」
「悪いことじゃねぇ……あいつ、ついこないだ、祝言をあげたんでね。しばらくは、家に真っ直ぐ帰宅だろうよ」
そう言って、八丁堀は笑った。
「そいつは……めでてえことですなぁ」
店主も笑った。
数日後。夜更けすぎ。
「清吉」の暖簾が上がった。
「かけ一丁、お願いします」
新人同心だった。
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、蕎麦を一束、湯へくぐらせた。
湯切りの音が夜気へ弾ける。
出し汁の香りが、新人同心の鼻をくすぐる。新人同心はその香りに微笑んだ。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱が乗せられた。
「はいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦の椀を新人同心に差し出した。
新人同心は黙って椀を受け取った。
「……あぁ、美味しい……」
新人同心は、蕎麦を一口啜ると、そう言葉を漏らした。
「……いいんですかい、そんなこと言って……」
店主が告げた。
新人同心はキョトンとする。
「聞きましたぜ。祝言をあげられたって」
「……あぁ……そうですか……」
新人同心の言葉は沈んでいた。
「おや、不満があるんですかい?」
「……いや、そんなことはないんですが……」
新人同心は言葉を続ける。
「なんだか、家に帰っても、緊張するんですよ……向こうもなんか固くて……まだ、慣れません」
「ほうほう」
「……ここの方が、緊張がほぐれて、安心できるというか……疲れが取れる、というか……」
店主は答えた。
「旦那、それはダメでさぁ」
店主は言葉を続ける。
「旦那が歩み寄って奥方の緊張をほぐさなきゃ。奥方は、初めて家を出て、右も左もわからず緊張してるんでしょうに」
新人同心は店主の言葉に聞き入るのだった。
「……独り身のあっしでもわかる。夫婦ってのは、互いに歩み寄って寄り添うもんだってね」
「……そういうもんですかね……」
「そういうもんです。この蕎麦食ったら、さっさと帰宅しなさい。奥方に愛想尽かされても知りませんぜ!」
新人同心は慌てて蕎麦を食べ、そそくさと帰宅するのだった。
霜月の風が吹き、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




