第六十六回:髪結いの女
秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「……やってますかい……」
夜更けに一見客が暖簾を上げて入ってきた。女だった。
「あいよ。何にしましょう」
店主は答えた。
「……何があるんですかい」
「かけ、花巻、天ぷらでさぁ」
「……じゃあ、天ぷらを頼みますよ……」
そう言うと、女は道具入れを地面に置いた。
「あいよ。天ぷら一丁ね」
店主は、いつもの手つきで蕎麦を湯へくぐらせた。
湯切りの音が夜気へ弾ける。
出し汁の香りが、女の鼻をくすぐる。
女の顔がほぐれてきた。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げが乗せられた。
「はいよ、天ぷら一丁」
店主は、天ぷら蕎麦の椀を女に差し出した。
「……ありがとさんよ……」
女は箸を取り、静かに天ぷら蕎麦を啜り始めた。
ゆっくりと蕎麦を食べ進める。
かき揚げを齧ると、女の顔が、少しほころんだ。
言葉もなく、女は蕎麦を汁まで飲み干した。
「……美味しかったよ」
女は店主に声をかけた。
「ありがとうございます」
店主が答えると、女は言葉を続けた。
「そこの船宿で、急に髪結い仕事でお呼ばれしてね。気がついたらこんな夜更けさ」
「……そいつはお疲れ様で」
「……で、お腹も空いたし、どうしようか、と思ったら、この提灯を見つけてね……助かったよ」
そういうと、女はお代を置き、暖簾を上げて帰っていった。
店主は静かに頭を下げるのだった。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




