第六十三回:雨の夜
初秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
今日は雨が降っていた。
こういう日は、あまり客はこない。
屋台は雨宿りにはあまり適してはいない。
――今日は、早仕舞いかねぇ……
店主は、そんな風に思っていた。
準備した食材が無駄になる。店主はそんなことを考えていた。
多少なら、自分の翌日の朝飯にすればいい。
だが、今日の量は、一人で食べるには、ちょっと多すぎた。
――明日の朝、裏長屋のご近所にでも配るかねぇ……
店主はそんなことを考えていた。
今日はもう店を畳むか、店主がそう思った時。
バシャンバシャンと、足音が聞こえた。
次いで、暖簾が上がる。一見客だった。
「やってるかい」
「あいよ。何にしましょう」
「かけ、頼むよ。あったかいやつをな」
「……旦那、ちょいと相談なんですがね」
「なんだい?」
「全部載せ、って試してみませんか?」
「全部載せ?」
「ええ、全部載せ。代金は、かけのままで」
「……なんだか怪しい話だなぁ……」
「この雨でさぁ。客は来ない、具は湿気る。ただで捨てるにゃもったいねぇ。そういうことでさぁ」
「……そういう事情かい……じゃあ、馳走になるかね」
「……ありがとうございます」
店主は蕎麦を一束半、茹で始めた。
椀に、かき揚げを乗せ、海苔を散らした。
「あいよ。全部載せ」
「すごいな、こりゃ……」
そう言うと、一見客は、蕎麦を啜り始めた。
雨が小降りになってきた。
「やってるかい」
常連客が、暖簾を上げた。
「いらっしゃい」
店主は答えた。少し、動揺していた。
「どうしたい?」
常連客が、その動揺に気付く。
「いや、今日はですね……」
一見客が言った。
「今日は、かけのお代で全部載せ、だってよ」
「本当か、店主!」
「……へえ……さいでさぁ……」
「そいつは勇ましいねぇ。じゃ、それ、もらうよ」
「……あいよ……」
言っている側から、また、暖簾が上がった。
店主は「判断を誤ったか」と思うのだった。
その日は、結果的に、いつも通りの客の入りだった。
「全部載せ」は、結局、赤字だった。
「また雨の日にやってくれ」
常連客の言葉だった。
勘弁してくれ、と店主は思った。
「……こんな日もあらあな……」
屋台を畳む店主は、そう呟いた。
雨上がりの初秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




