第六十二回:船宿の女中
江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」があった。
提灯に書かれている屋号は「清吉」と書いてあった。
店主は、提灯に灯を灯し、暖簾を出した。夜鳴き蕎麦屋が暖簾を出すのは珍しかった。
暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、さすがの日本橋も人通りは減る。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
「邪魔するよ」
一見客が暖簾を上げて入ってきた。女だった。
「あいよ。何にしましょう」
「何があるんでさ」
気風の良い声だった。
「かけ、花巻、天ぷらでさぁ」
「天ぷらねぇ……最近、あっちこっちの蕎麦屋で見かけるねぇ……花巻をもらおうかい」
「あいよ。花巻一丁ね」
店主は、慣れた手つきで蕎麦を湯へくぐらせた。
湯切りの音が夜気へ弾ける。
出し汁の香りが、女の鼻をくすぐる。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、ちぎった海苔がたっぷりと乗せられた。
「はいよ、花巻一丁」
店主は、花巻蕎麦の椀を女に差し出した。
女は香りを嗅いだ。
パァッと顔が明るくなる。
「海苔の香りがいいねぇ。どこのだい?」
「……今日のは大森の海苔でさぁ」
「いい所のを使ってるねぇ。それじゃ、いただくよ」
女は静かに蕎麦を啜り始めた。
「腰のあるいい蕎麦だねぇ」
「出し汁もいい塩梅だ」
たまにそんな言葉を呟きながら、女は蕎麦を汁まで飲み干した。
「あぁ、生き返った。明日からも頑張れるよ。お代は……」
「花巻は二十四文でさ」
店主が答えると、女はキッカリ四文銭を六枚、台の上に置いた。
「……また来さしてもらうよ。仲間にも教えないとね」
そういうと、女は暖簾を上げて帰っていった。
店主が見送ると、女の行く先には船宿の明かりが見えた。
――船宿の住み込みか。道理で……
店主は、大きく頷くのだった。
秋風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




