第六十一回:文化十年。秋の始まり
文化十年。秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「天ぷら、一丁」
常連客が暖簾を上げるなり注文した。
「あいよ。天ぷらね」
店主は、蕎麦を一束、湯へくぐらせた。
常連客は、その調理風景を眺めていた。
店主は黙って茹で上がった蕎麦を勢いよく湯切った。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げを乗せた。
「天ぷら、すっかり板についたな」
常連客の言葉に、店主は軽くいなした。
「『天ぷら』はたまたまでさぁ。新しい品書なんて、そうそう浮かびませんて」
店主はそういうと、天ぷら蕎麦の椀を常連客に差し出した。
「邪魔するよ」
八丁堀が暖簾を上げて入ってきた。
「かけ一丁、頼むよ」
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、再び、蕎麦を一束、湯へくぐらせた。
茹で上がった蕎麦を勢いよく湯切る。
椀に開けた蕎麦に出し汁をかけ、刻み葱を乗せた。
「はいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦を八丁堀に差し出した。
「今晩も、夜番で?」
店主の問いかけに八丁堀は頷いた。
「……ここしばらく、ちょくちょくあってね。しばらくはこの辺りの夜も厳しめさ。気ぃつけなよ」
八丁堀はそう告げると、ゆっくりと蕎麦を啜った。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
今年も蕎麦の季節が訪れた。




