第六十回:文化九年の暮れ
文化九年。冬は師走。江戸は日本橋。夜半の橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
暖簾が冬風を受けてはためいた。
常連客が肩をすくめながら入ってきた。
「風がつめてぇなぁ……かけ、頼むよ」
「あいよ。かけ一丁」
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
常連客が口を開いた。
「今年も、もう終わりかい……」
「旦那はここで大年蕎麦ですかい?」
「……蕎麦屋はどこも混んでるしな。独り身の自分には、ここがちょうどいいのさ」
そして、常連客は大徳利を見せた。
「こうして、酒も準備してある」
「……ここで酒は勘弁してくださいよ、旦那」
「もちろんさ。これは帰ってからのお楽しみさ」
常連客は笑った。
店主は、かけ蕎麦を差し出すのだった。
八丁堀が暖簾を上げた。
天ぷら蕎麦を注文する。
「今年も色々あったな……」
「このあいだの地震にゃ驚きましたぜ……」
「……あの日は、南町もてんやわんやだったぜ。お奉行の腰が座ってなきゃ、危うかったかもしれん」
店主は、八丁堀に天ぷら蕎麦を差し出した。
「旦那もこれが大年の蕎麦ですかい?」
「……おうよ。今日は夜番だからな……おめぇさんは?」
「流石に正月は休ませてもらいますよ。家の煤払いも済ませてきやしたしね」
「……そうかい。正月くらい、ゆっくり休むがいいさ……」
八丁堀は静かに呟いた。
そうして、差し出された天ぷら蕎麦をゆっくりと啜るのだった。
冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
屋台を畳む頃、雪がパラリパラリと降り始めた。
文化九年が暮れていった。




