第五十五回:怪談本
秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
「やってるかい」
常連客が暖簾をくぐった。以前「浮世風呂」を貸した客だった。
「何にしましょう」
「かけ、頼むよ」
常連客はいつものように注文した。
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
客は辺りを見回した。誰もいないことを確認するかのようだった。
「店主、『北越奇談』って知ってるかい?」
「……いや……申し訳ない……」
「柳亭種彦ってっやつの怪談集なんですがね、これがめっぽう面白いらしい」
「さいですか」
店主は茹で上がった蕎麦を湯切りした。
常連客は話を続ける。
「で、なんと、そいつの挿絵は、あの北斎ですぜ」
「……へぇ、北斎さんが。そりゃ、話だけじゃなく、絵も恐ろしそうですなぁ」
店主は椀に蕎麦を開け、出し汁をかけた。心地良い香りがあたりに漂う。
「どうでぇ、店主。こいつも……」
「……ありがたい話ですが、今は『怪談』本にまで銭を回す余裕はないんでさぁ……」
店主きっぱりと言った。蕎麦の椀に刻み葱を乗せた。
その言葉を受け、客もそれ以上は勧めなかった。
「……そうかい。そいつはすまなかった。あんたなら喜ぶと思ったんだがね……」
「銭に余裕がないんでねぇ……はいよ。かけ、お待ち」
店主はかけ蕎麦を常連客に差し出すのだった。
常連客は箸を取り、蕎麦を啜った。
「相変わらず、いい出し汁の味だ。これなら多少の余裕くらい……」
店主は答えた。
「こちとらカツカツですよ、旦那」
店主は苦笑するのだった。
「やってるかい」
他の客が暖簾を上げた。
「はいよ。何にしましょう」
「かけ、頼むよ。いつもの美味いやつを、な」
「あいよ、かけ一丁」
店主は、再び、蕎麦を一束、茹で始めた。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
後日、店主は、貸本屋から柳亭種彦の「北越奇談」を借りた。
「……こいつは、面白れぇ……」
店主は嘆息するのだった。
「……でも、買えねぇな……こいつは貸本で我慢だな」
そう呟いた店主の部屋の棚には、「浮世風呂」の第三編が置いてあった。




