第五十三回:見合い話。
初秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
新人同心が暖簾を上げた。今日は一人だった。
「かけ、お願いします」
「あいよ。かけ一丁」
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
新人同心はため息をついた。
店主は黙っていた。
新人同心はゆっくりと口を開いた。
「……そろそろ『身を固めろ』と、周りがうるさくて……」
新人同心は再びため息をついた。
「私には、まだまだ早いです……自分一人で手一杯の若輩者ですから……」
店主は口を開いた。
「独り身のあっしが言うのも、おかしな話ですが……」
店主は茹で上がった蕎麦を湯切りした。
「そんな旦那を後ろで支える。それが『夫婦』ってもんじゃないですかねぇ……」
「後ろで支える……」
「えぇ。それに」
店主は椀に蕎麦を開け、出し汁をかけた。
「こんなところで一人で蕎麦を食うよりも、奥方の晩御飯の方が、遥かに美味いでしょうよ」
「……そんなことは……」
「……食べたこと、あるんですかい?」
店主は蕎麦の椀に刻み葱を乗せ、かけ蕎麦を新人同心に差し出した。
「はいよ。かけ、お待ちどう」
新人同心は、かけ蕎麦の椀を受け取った。
「……この蕎麦より美味い晩御飯、ですか……」
そうして、新人同心は、かけ蕎麦を啜った。蕎麦と出し汁の香りが新人同心の鼻をくすぐった。
「……あるんですかねぇ、そんな飯……」
「あるに決まってるじゃないですか、旦那」
店主はその言葉に笑うのだった。
初秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




