第五十一回:戻ってきた「花巻」
文化九年。秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
常連客が暖簾を上げた。品書きを見る。
「お、花巻が……海苔が戻っていたのかい」
店主は答えた。安堵の表情だった。
「ようやく入ったんですよ」
「待たせたねぇ。で、天ぷらはどうするんだい」
「続けますぜ。その代わり、しっぽくは今日まででさ」
「……それは、寂しくなるねぇ」
「天ぷらが出るようになってから、誰も頼まなくなりまして」
「天ぷら、美味ぇもんな……そいじゃ、今日は、最後のしっぽくにするかね」
「あいよ。しっぽく一丁ね」
店主は、慣れた手つきで蕎麦を湯へくぐらせた。
湯切りの音が夜気へ弾ける。
出し汁の香りが、客の鼻をくすぐる。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、蒲鉾と麩が二つずつ乗せられた。刻み葱も乗せられる。
「はいよ、しっぽく一丁」
店主は、しっぽく蕎麦の椀を差し出した。
「お、花巻があるのかい」
常連客と入れ替わるように、八丁堀が暖簾を上げて入ってきた。
「ようやく問屋に入りましてね」
「それじゃ、今日は花巻にするか」
「あいよ。花巻一丁」
店主は手早く蕎麦を湯へくぐらせる。
出し汁を蕎麦の椀にかけ、ちぎった海苔を乗せた。
海苔の香りが、八丁堀の鼻をくすぐる。
「はいよ、花巻一丁」
店主は、花巻蕎麦の椀を八丁堀の前に出した。
「久しぶりの花巻だねぇ……いただくよ」
八丁堀は椀を口元まで持ち上げる。
湯気と一緒に立ち上る海苔の香りに、思わず目を細めた。
「……これだ」
八丁堀は満足げに蕎麦を啜るのだった。
湯気に乗って流れる海苔の香りは、二年ぶりに日本橋の夜へ戻ってきていた。
屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




