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夜鳴き蕎麦徒然草子  作者: いわん
第五部:文化八年、江戸日本橋。

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第四十九回:蕎麦の師匠(後)

江戸は日本橋。

橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」があった。

提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。

しかし、今、日本橋の袂にその姿はなかった。

一週間が過ぎようとしていた。


店主は裏長屋の自室で朝から布団に寝転がっていた。

趣味の滑稽本も読む気にならなかった。


そのまま、数刻が過ぎた。

店主は天井を見つめていた。

師匠のことを思い出していた。

師匠は厳しかった。

何度も蕎麦をダメにした。出し汁を捨てられた。

師匠に認められるまで五年はかかった。

車町火事が起きるまでは、師匠のもとで修行していた。

あの大火で師匠の店は燃え尽き、師匠は引退を決めた。店が再興することはなかった。

そして、その年の秋から、日本橋で「清吉」の夜鳴き蕎麦を始めた――


店主は天井に手を向けた。

師匠に鍛えられた手が、そこにはあった。

店主は体を起こした。

改めて、蕎麦を打ち始める。

その脳裏には、師匠の厳しい表情が浮かんでた。


一週間ぶりに、日本橋の袂に、夜鳴き蕎麦屋の灯りが灯った。

江戸っ子は飽きるのも早い。一週間も休んだのだ。今日は閑古鳥だった。

夜も更けてきたところで、ようやく客が来た。一見さんだった。

「いらっしゃい。何にしましょう」

「何があるんでい」

店主は答えた。「かけ、天ぷら、しっぽくでさぁ」

「天ぷらがあるのかい。じゃあ、天ぷらで」

「あいよ。天ぷらね」

店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。

茹で上がった蕎麦の湯切り音が、一見客の耳に届く。

出し汁の香りが、客の鼻をくすぐる。

出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げが乗せられた。

それは、以前と変わらない手捌きだった。

「はいよ、天ぷら一丁」

店主は、天ぷら蕎麦の椀を差し出した。

一見客は箸を取り、七味をパラリと振りかけた。

蕎麦を一口、啜る。

「……こいつは……美味ぇじゃないか……」

そう言って、一見客は天ぷら蕎麦を夢中になって啜るのだった。


一見客と入れ替わるように、八丁堀が暖簾を上げた。

「……もう、いいのかい……」

「へぇ。おかげさまで……」

「じゃ、かけを貰おうかな」

「あいよ。かけ一丁ね」

店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。

茹で上がった蕎麦の湯切り音が八丁堀の耳に届き、湯気とともに出し汁の香りが鼻をくすぐった。

出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱が乗せられた。

「はいよ。かけ、お待ち」

店主は八丁堀にかけ蕎麦を出した。

「……さてと……お手なみ拝見だ……」

八丁堀は箸を取り、七味をパラリパラリと振りかけた。

かけ蕎麦を一口、啜った。

八丁堀の目が見開く。

「……これだよ、これ。ちゃんと味が戻ってきたじゃないか」

「ありがとうございます」

八丁堀は、夢中になってかけ蕎麦を啜るのだった。


冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。


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