第四十八回:蕎麦の師匠(前)
初冬。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
店主は、寝汗に塗れて目を覚ました。
まだ夜は明けていない。いつもより早い時刻だった。
――夢か……嫌な夢だったぜ……
店主は布団から出ると、手拭いを片手に井戸へと向かった。
すぐに拭い取りたい。そんな嫌な汗だった。
次の日の昼前。店主が蕎麦を打っていると、便り屋が手紙を届けにきた。
差出人は、蕎麦打ちの師匠だった。
――師匠から、手紙だと……
店主の背中に冷たい汗が流れた。
それは、師匠の訃報を告げる手紙だった。
店主は、目の前が真っ暗になった。
蕎麦が打てなくなった。
店主は衝撃のあまり、しばらく店を出せなくなっていた。
飯もロクに食わず、酒ばかり飲んでいた。
幾日か過ぎたのち、店主は頭を上げた。
「……凹んでばかりじゃいられねぇなぁ……」
ようやく、蕎麦のことを考えられるようになった。
しゃっきりしない頭で、久しぶりに蕎麦を打った。打ち終えた蕎麦はボソボソだった。
出し汁を仕込んだ。それは、ぼんやりとした、キレのない味だった。
それでも店主は、日本橋に赴いた。
いつも通りに提灯に灯りを付けた。
しかし、常連客は心配した。
蕎麦の味も、出汁の加減も何もかもおかしくなってしまっていた。
「……店主さんよ」
常連客の一人が言った。
「何があったか知らねぇが、これはいつもの『あんたの味』じゃない。もうしばらく休んだほうがいい。俺たちは待ってるから」
店主は、その言葉に、ただただ、頭を下げるのだった。
屋台の風鈴は、その音を潜めていた。




