第四十七回:錦絵の「團十郎」
文化八年。秋は霜月の初め。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
馴染み客がかけ蕎麦を啜っている時、暖簾が上がった。いつもの常連客だった。
常連客はいささか酔っていた。天ぷら蕎麦を注文する。
常連客が言った。少し声が大きかった。
「團十郎の『助六』、良かったぞ」
馴染み客が答える。
「そうかい。あっしはまだなんでさぁ」
店主は黙って蕎麦を茹でていた。
常連客は言葉を継いだ。
「取るものとりあえず見にいきな。見なきゃ後悔するぜ」
馴染み客はあしらうように答えた。
「そうかい、そうかい。折を見て、行ってくるかね」
店主は、茹で上がった蕎麦の湯切った。蕎麦を椀に移す。
常連客の言葉は熱を帯びてきた。
「それがいい。皆、この團十郎を見てくれ。この男っぷり。粋だよねぇ」
常連客は、團十郎の錦絵をその場で広げた。それは見事な錦絵だった。
しかし、馴染み客は顔を顰めた。
「おいおい、いきなり広げるな」
店主は蕎麦を作る手を止めた。
「お客さん。ここは手狭なんで、そういう物を広げられるのはちょっと……」
常連客は変わらず言葉を続けた。
「すまねぇ、すまねぇ。でも見てくれよ、この男っぷり!『男が惚れる』たぁ、團十郎のことだねぇ」
常連客は店主に告げる。
「店主。どうだい。こいつを屋台に貼る、ってのは。千客万来、間違いなしだ!」
店主は、椀にだし汁を注ぎながら答えた。
「……ありがたい話ですが、そういうのは、あっしの性分じゃないんで……」
馴染み客は常連客を嗜めた。
「あんた、いくら嬉しいからって騒がしすぎる。ちったぁ周りを見やがれ」
常連客の声は小さくなった。
「……そうかい、そいつはすまなかった……」
常連客は気まずそうに錦絵を巻いて仕舞った。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げが乗せられた。
「はいよ。天ぷら蕎麦、お待ち」
店主は、常連客に天ぷら蕎麦を出した。
「團十郎も粋だが、静かに蕎麦を啜るのも江戸っ子の粋でさぁね」
店主のその言葉に、常連客は耳を赤くするのだった。
晩秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




