第四十五回:新人同心の苦悩
秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
久しぶりに、あの「新人同心」がやってきた。
三年も経てばもう「新人」ではない。だが、店主にとっては、あの頃の「新人同心」であった。
「かけ、一つ、お願いします」
暖簾を上げた新人同心の声は、疲れ切っていた。
「あいよ。かけ一丁」
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
二人の間に沈黙が流れた。
「……どうかしなすったんですかい?」
店主は思わず声をかけた。
「……いや、私は『役立たず』だな、と……」
そしてまた、沈黙が訪れた。
茹で上がった蕎麦の湯切り音も、出し汁の香りも、今の新人同心には届いていないようだった。
店主は、蕎麦の椀にだし汁をかけると、刻み葱を乗せた。
新人同心が呟いた。
「おろしゃが来ても、私は、なんの力にもなれない……」
店主の動きが一瞬止まった。以前、八丁堀の旦那が言っていた件か、と店主は察した。
三度目の沈黙ののち、新人同心の前にかけ蕎麦の椀が差し出された。
新人同心は蕎麦には手をつけず、口を開いた。
「若輩者の私は、なんの力にもなれず……悔しい限りです……」
店主は静かに言った。
「……何か、勘違いされてませんかね、旦那」
新人同心が頭を上げた。
「……勘違い、とは?」
店主が言葉を継いだ。
「同心の旦那たちが、この江戸の町を守ってる。だから、お上も江戸のことは気にせず、おろしゃの対応に専念できる」
新人同心は黙って店主の言葉を聞いていた。
「旦那は、自身の本分を果たせばいい。それがお上の治世につながる。あっしは、そう思いますがねぇ」
新人同心の目に、光が戻った。
「まずは、私が、私の本分を果たす。同心として働く……まずは、そこから。ということですね」
新人同心は、強く頷くのだった。
「……蕎麦、伸びちまいますよ」
店主は新人同心に告げた。
「ああ、これは……いただきます」
新人同心は箸を取ると、かけ蕎麦を啜り始めた。そこには笑顔が戻っていた。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




